第67章 行動コストと心の報酬
「ねぇ、渡辺さん」
トランプをテーブルに並べ終えた小林さんが、少し顔を上げて渡辺さんに話しかけた。さっきまでの投げやりな雰囲気はなく、その表情は真剣だ。
「この本には、『めんどくさい』という感情が、行動のコスト評価に基づく回避反応だって書いてありましたけど、それってどういうことなんですか?なんか、すごく難しくて…」
渡辺さんは、本から目を離し、静かに答えた。「行動のコスト評価…つまり、『得られる報酬』と『かかる労力』を、無意識のうちに天秤にかけるということです。労力の方が大きいと判断されると、脳は『めんどくさい』という感情を生み出し、行動を抑制しようとします」。
「なるほどねぇ」と、課長がポンと手を叩いた。「つまり、新しいマジックを覚える労力の方が、それを成功させたときの『やった!』っていう喜びよりも大きい、って脳が判断しちゃったってことね!」。
「そういうことですね」と、主任が頷いた。「だから、小林さんの脳は『めんどくさい』って信号を出して、これ以上エネルギーを使うな、って言ってるんだ」。
「うわあ…なんか、すごく現実的で嫌な話ですね…」と、小林さんは再びため息をついた。
「でも、逆を言えば、そのバランスを変えればいいってことじゃない?」と、高橋さんが冷静に言った。「労力を減らすか、報酬を増やすか。手品サークルなら、それができるはずよ」。
「どうやって?」と、佐藤くんが興味津々に尋ねた。
「例えば、練習時間を短くする。あるいは、新しいマジックではなく、すでにできるマジックを磨く。そうすれば、労力は減らせる」と、高橋さんは淡々と答えた。
「あるいは、報酬を増やす」と、伊藤さんが続けた。「報酬というのは、必ずしも成功だけではありません。この本によると、『他者からの承認』や『自己満足』も立派な報酬です。練習の途中でメンバーに褒めてもらう、とか、小さな目標をクリアして自分で自分を褒める、とか」。
課長は、トランプを高く積み上げながら、満面の笑みで言った。「そうよ、そうよ!私は、マジックが成功したときの、みんなの驚いた顔が最高の報酬なの!だから、どんなに練習がめんどくさくても、その顔を想像するだけで頑張れちゃうわ!」。
「すごいですね、課長」と、佐藤くんが尊敬の眼差しを向けた。
「でも、どうすればいいのか分からない時もありますよね」と、小林さんが言った。「何かを始めること自体が、すごくめんどくさくて…」。
渡辺さんは、再び本に目を落とした。「東洋思想では、『めんどくさい』を**『行為をありのままに受け取れない心の反応』と捉えます。つまり、行動と自分の間に『距離』**を作ろうとする心の働きです」。
「その距離をなくすためには、まず行動そのものに集中することです。結果や評価は考えずに、ただ、トランプを手に取る。ただ、指を動かす。そうすることで、心と行動の間にあった『めんどくさい』という隔たりが、少しずつ埋まっていくはずです」。
小林さんは、じっと渡辺さんの話を聞いていた。そして、彼女は再び、テーブルに置かれたトランプに手を伸ばした。今度は、さっきよりもずっと、優しい手つきだった。
「私、今から、このカードを全部裏返すマジックをします!」
彼女は、笑顔で宣言した。それは、誰も見たことがない、とてもシンプルで、でも、彼女にとってはとても大きな一歩だった。
サークルメンバーたちは、そのマジックを静かに、そして温かく見守った。誰もが、その行為が、単なる手品ではなく、彼女自身の心との向き合い方であることを理解していた。