第66章 無気力という病
「はぁ…やっぱり、全然やる気が出ない…」
小林さんが、手に持ったトランプをパラパラと適当に弾きながら、部室のソファに深々と体を埋めた。練習を始めてから、もう何枚もカードを落としている。
「小林さん、大丈夫?無理に頑張らなくていいんだよ」と、主任が優しく声をかけた。
「でも、これじゃいつまで経っても新しいマジック、マスターできないじゃないですか…。私、こんなに手品が好きなのに…」
彼女の言葉に、部室の空気が再び重くなる。
「その『好き』なはずなのにやる気が出ない状態…まさにこの本が言う『無快感』ってやつね」と、伊藤さんが静かに言った。「本来楽しいはずの行動に喜びを感じられなくなる状態。軽度のうつ状態のサインとも言われています」。
「えっ、私、病気なんですか!?」と、小林さんは驚いて体を起こした。
「そこまで深刻に考えなくてもいいんじゃない?小林さんはただ、ちょっと疲れてるだけよ」と、課長がカラッと笑った。「ねぇ、渡辺さん。この『めんどくさい』って感情、脳みそはどうなってるの?」。
渡辺さんは、本から顔を上げ、淡々と話し始めた。「神経的に見ると、『めんどくさい』と感じるとき、脳は**『行動しても報酬が見込めない』**と判断しています。前頭前野の活動が低下し、扁桃体がリスク回避信号を出し、そして、側坐核という『報酬系』のドーパミン分泌が下がるのです」。
「ドーパミン…?」と、佐藤くんが首を傾げた。「それって、やる気が出るホルモンでしたっけ?」。
「その通りです」と、主任が答えた。「僕たちがマジックを成功させて『やった!』って思うとき、このドーパミンが出てるんだ。でも、失敗が続いたり、結果が見えなかったりすると、脳が『この行動には意味がない』って判断しちゃうってことだね」。
「うわぁ…なんか、私の脳みそ、もう手品をやる意味ないって思っちゃってるってこと!?」と、小林さんは絶望的な顔をした。
「そうよ!」と、課長は声を弾ませた。「でも、それでいいじゃない!だって、私たちの脳は賢いんだから!無駄なことにエネルギーを使わないように、ちゃんとブレーキをかけてくれてるってことよ!」。
「それにね、小林さん」と、高橋さんが続けた。「哲学的にも、『めんどくさい』は**『無気力』や『煩』**として扱われるわ。これは、行為をありのままに受け取れない、執着と抵抗の表れなのよ。言い換えれば、私たちは、手品が『うまくできない自分』に抵抗しているのかもしれないわね」。
「なるほど…」と、主任が腕を組んで言った。「つまり、私たちは『手品が上手くなりたい』という理想に執着するあまり、『今の自分』と『手品』の間に距離を作ろうとしてるってことか…」。
「そうね。だから、まずはその『距離』をなくすことから始めればいいんじゃないかしら」と、課長がトランプを小林さんの前に置いた。「ねぇ、小林さん。今日は、ただ、このカードを全部テーブルに並べるだけのマジックにしない?失敗したっていいし、誰にも見せなくていい。ただ、このカードを並べるだけ」。
小林さんは、少し戸惑った顔をしながらも、ゆっくりとトランプに手を伸ばした。一枚、また一枚と、彼女はカードを並べていく。その手つきはまだぎこちないが、さっきまでのような投げやりな感じはない。
主任と佐藤くんも、コインをただ床に転がすだけのマジックを始めた。高橋さんは、ただ静かにそれを見守っている。そして、渡辺さんは、淡々と本を読み続けていた。
部室には、トランプとコインがテーブルや床に触れる、小さな音が響いていた。それは、魔法の練習というよりも、心のリハビリのようだった。




