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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2112/2187

第65章 心が発するSOS信号


手品サークルの部室に、重い空気が漂っていた。原因は、部室の隅でトランプを並べている小林さんの、何度目かの大きなため息だ。

「はぁ……もう、めんどくさい……」


小林さんは、手にしたトランプをぐちゃぐちゃに混ぜると、投げやりな仕草でテーブルに置いた。いつもならキラキラと目を輝かせながら新しいマジックに挑戦している彼女らしくない様子に、周りのメンバーが顔を見合わせる。


「小林さん、どうかしたの?その新しいカードマジック、難しい?」と、主任が心配そうに声をかけた。彼は、佐藤くんにコインマジックの種明かしをしている最中だった。

「難しいとかじゃないんですよ…なんか、もう、練習するのも、新しいマジック考えるのも、全部めんどくさくなっちゃって…」


小林さんは、心底うんざりした顔で言った。その言葉に、部室の空気がさらに沈む。誰もが、その感情に覚えがあるからだ。

「あら、小林さん、ずいぶん参ってるわねぇ」と、課長が声を弾ませながら言った。彼女は、新しいトランプの束を器用にシャッフルしながら、小林さんの元にやってくる。「『めんどくさい』って、いいわよね。なんか、自分を甘やかしてる感じがして。私もよく口にしちゃうわ」。


「そうかなぁ…なんか、自己嫌悪になっちゃって…。私、こんなに手品が好きなのに、やる気が出ないなんて…」と、小林さんはうなだれた。

その様子を、高橋さんは冷静に見つめていた。「『めんどくさい』は、ただの怠け心じゃないわ。あれは、ある種の警告信号よ」。彼女は、いつもは静かに見守っているが、核心をつくような言葉を時折口にする。


「警告信号?」と、佐藤くんが首を傾げた。彼は、主任に教わったマジックをうまくこなせず、少し自信をなくしている様子だった。

渡辺さんが、黙って読んでいた本から顔を上げた。彼女の表情は相変わらず無表情だが、その目がわずかに小林さんの方を向いている。「『めんどくさい』は、感情の一種です」。


その一言に、全員の視線が渡辺さんに集まった。彼女が話すときは、なぜか空気がピンと張りつめる。

「え、感情?でも、怒りとか悲しみとは違う気がしますけど…」と、小林さんが尋ねた。


「はい」と、渡辺さんは淡々と答えた。「『めんどくさい』は、非常に複合的で中間的な感情です。心理学的には、『嫌悪』『疲労』『無関心』『抵抗』など、いくつかの要素が混ざり合って形成されるものです」。

彼女は、持っていたメモ帳にいくつかの単語を書き出した。


「動機の低下:行動したくない・先送りしたい」

「認知的負荷の回避:思考や判断が煩雑に感じる」

「情動的抵抗:小さなストレスへの反応」

「自己防衛的回避:エネルギーを節約しようとする心の反応」


「つまり、『めんどくさい』は、行動エネルギーを抑制する防衛的な感情なのです。怒りや悲しみのような明確な感情ではなく、**“行動と感情の中間にある心理的ブレーキ”**といえます」。


伊藤さんが、静かに話を続けた。「心理学者のプルチックの『感情の輪』で言えば、『めんどくさい』は、中心からやや外側の『退屈』『嫌悪』『悲しみ』の混合領域に位置するとされています」。彼女は、博識で、いつも皆が知らないような豆知識を静かに披露する。


「うわぁ…なんか、ちょっと怖いですね」と、小林さんが怯えたように言った。

「そうよ、怖いわよね」と、課長がトランプを高く放り投げた。「だって、それって、私たちの脳が『もうこれ以上頑張れないよ!』って叫んでるってことじゃない?まるで、私たちの心が、私たち自身にマジックをかけて、見えない壁を作ってるみたいだわ」。


「なるほど…。僕、最近新しいマジックの練習がうまくいかなくて、全部嫌になってました。それも、この『めんどくさい』って感情のせいだったのかな…」と、佐藤くんが不安そうに言った。


「そうかもしれません」と、主任が優しく言った。「この本にも書いてあるみたいに、脳が『行動しても報酬が見込めない』と判断して、行動エネルギーを節約するために『めんどくさい』という感情を生むんですって。佐藤くんがマジックを失敗してばかりで、脳が『これ以上やっても成果が出ないぞ』って判断しちゃったのかもね」。


「ええ?じゃあ、どうすればいいんですか!?この『めんどくさい』って感情を克服するには…」と、小林さんは身を乗り出して尋ねた。

渡辺さんは、ゆっくりとメモ帳を閉じた。「著者は、この感情を無視するのではなく、そのサインを読み解くことが重要だと述べています」。

「サインを読み解く…?」と、高橋さんが繰り返した。


「そうです。つまり、『めんどくさい』は単なる口癖ではなく、**心が『エネルギーの使い方を再評価しているサイン』**だと考えるのです。何が自分にとって本当に重要で、何がそうでないのか。この感情は、その問いを私たちに突きつけているのかもしれません」。


その言葉に、サークルメンバーたちは、静かに考え込んだ。小林さんは、テーブルに散らばったトランプを、今度は丁寧に拾い始めた。彼女の顔はまだ晴れないが、その目には、少しだけ前向きな光が灯っていた。


「なるほどね…。私たちの脳は、めんどくさいという感情を通して、私たちに『ちょっと休憩しませんか?』って誘ってくれてたのかもね」と、課長が微笑んだ。「よし、みんな!今日は、新しいマジックの練習は一旦おしまい!この『めんどくさい』という感情のサインを、みんなでじっくり読み解いていきましょ!」。

課長の明るい声に、部室の空気が少しだけ和らいだ。

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