第63章 「沈黙の現場」
地上はまだ泥の匂いを吐いていた。霞ヶ関の中央官庁群、その地下二十メートル。通信復旧班の中枢ノード、通称「C-Room」は、配電盤の低い唸りとサーバ冷却ファンの風切り音だけが支配していた。
野田技監は作業台に肘をつき、指先で端末のスクロールバーを押し続けていた。スクリーンには、再構築された光ファイバ幹線のトポロジー図。ところどころが赤、いくつかが橙。
復旧率、六二%。通電確認済み、四八%。
「これでも、やっとここまで来たんだよな……」
呟きは誰にも届かない。現場には、ノイズのような沈黙しかない。
向かいのラックに身をかがめていた大友遥人が、コンソールに指を走らせながら言った。
「北丸ノ内側、リンクレイヤでパケットロス二%。干渉はない。多分、地下水残留です」
「排水ポンプ、もう一度回せ」
「電力班が優先割当を外してる。再起動には二十分かかる」
「二十分で街が死ぬわけじゃないが、二十分で一人が死ぬこともある」
大友は軽く息を吐いた。
「……めんどくさいですね、因果律ってやつは」
「めんどくさい? そう言えるうちはマシだ」
野田は腰を上げ、ラックの後ろへ回った。
「言葉が出る間は、まだ脳が動いてる。黙り始めたら、終わりだ」
C-Roomの天井から、細い水滴が一つ落ちた。光ファイバーの束に触れ、虹のように反射して散る。
大友はモニターを見たまま、小さく呟いた。
「昨日、第二環状のサブルートが落ちたの、知ってますか?」
「知ってる。電力系統の切り替えミスだろ」
「はい。……でも、記録上は“自然断”で処理されてました」
「つまり、誰かが隠した」
「あるいは、“誰もいなかった”」
「どっちにしても、現実は変わらん」
野田はスパナでケーブルクランプを締め直した。音は乾いていた。
「この地下は、誰が設計したんだ?」
「建設局の前任担当。震災以前の計画書では、五十年耐用の予定でした」
「五十年? 三ヶ月で海水に呑まれたぞ」
「設計者はもういません」
「だろうな」
二人のあいだに、機械音だけが流れた。
復旧作業三ヶ月。東京の半分が海に沈んだあの日から、ここだけが「通信を再び繋ぐ」現場になっている。
だが、誰もそれを「希望」とは呼ばなかった。
野田は工具を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「大友、お前さ」
「なんです」
「本当に、全部繋げると思ってるか?」
数秒、応答はなかった。
「思ってないです。でも、途中でやめた記録を残すのも嫌なんです」
「……若いな」
「歳のせいですよ。年寄りは、終わりの形を気にする。若いのは、始まりの形を気にする」
野田は少し笑った。
「上手いこと言うじゃねぇか」
「引用です。“めんどくさい哲学者”の」
「そいつも今いねぇんだろ」
「ええ。データベースには、名前だけ残ってます」
ラックのランプがひとつ、緑に変わった。
「復旧ライン、港区側に通電」
「どれくらい持つ?」
「二時間。冷却が追いつけば、もう少し」
「二時間か。人間なら、仮眠も取れねぇな」
野田は腕時計を見た。秒針が正確に進むのを確認して、静かに言った。
「俺たちは今、死んだ都市に呼吸を戻してる。呼吸はめんどくさいけど、止めたら終わりだ」
「……はい」
モニターの片隅に、「LINK RESTORED」の文字が浮かんだ。
その一行を見つめたまま、大友は椅子の背にもたれ、わずかに笑った。
「やっと、ひと息つけますね」
「息つく暇なんかねぇよ。まだ三百ノード残ってる」
「ですよね。……めんどくさい」
野田も笑った。
「それでいい。“めんどくさい”ってのは、生きてる証拠だ」
二人は再び端末に向かい、無言でキーを叩き始めた。
C-Roomの換気ダクトを通して、外の世界のわずかな風の音が届いた。
地上ではまだ、水が退いていない。
しかし地下では――情報の血管が、少しずつ脈を取り戻していた