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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン16
2109/2172

第62章 倦怠の対話



 地下共同溝の気温は二十七度、湿度は九十に近い。ヘッドランプの白い円が、泥と塩の結晶でざらついた壁を切り取っては流れていく。遠くでポンプが唸り、水が鉄板の上を渡る鈍い音が続いていた。

 白井は膝までの長靴に体重を預け、濡れたケーブル識別札を指でこすった。黒インクが少し滲む。「No.14-B/四谷側」。OTDRの波形は、先ほどから小さく上下している。


「またノイズ、です」

 白井が言うと、矢代は短く頷いた。ヘルメットの縁に水滴が集まり、顎の方へつつっと落ちる。

「現地点の温湿度、記録してくれ。ノイズは温度で揺れる」

「はい。二十七・八、湿度八十七。……めんどくさいですね、記録。何度書いても増えるだけで、減らない」


 矢代は片手で測定器の画面を傾け、もう片手で袖口の泥をぬぐった。

「減らない記録は、減らない現実のコピーだ。面倒でも、記録が先に減ったら困る」

「コピー……」白井は笑うでもなく繰り返した。「コピーなら、ちゃんと綺麗に写りたいものです。私の字、もう滲んで読めない」


「読めなくても、書いたという事実が残る」

「事実だけが残っても、誰も読めなかったら意味がない」

「じゃあ、ここでやめるか?」

 間を置かずに返ってきた矢代の声は、驚くほど平板だった。責めても慰めてもいない。

 白井は顔を上げ、ヘッドランプの光を少しだけ矢代に向けた。黒い瞳は眩しさに細くなったが、揺れてはいない。

「やめません。……めんどくさいと言っただけです」

「言え。それは貴重な信号だ」


 ポンプが一段高く鳴り、水位が三センチ下がったのが足元の感覚でわかった。白井はケーブルの被覆をアルコールで拭き、SC/APCコネクタの端面を確認する。緑色のポリッシュ面に、細い線状の傷がかすかに見える。

「この端面、研磨し直します。反射が大きい」

「何秒?」

「二百。……二百秒、です」

「なら、二百秒だけ世界が良くなる。やってくれ」


 小さな研磨フィルムを取り出し、白井は手元で円を描き続けた。円、円、円。水滴の音と、研磨の擦過音と、遠くの発電機の律動だけが混ざる。

「矢代さん」

「うん」

「ときどき、ここでやっていることぜんぶ、巨大な『後片付け』に見えます。元に戻すだけで、前に進んでる感じがしない」

「後片付けは、未来のための床を出す作業だ。床がないのに前に進めば、落ちる」

「床、ですか」

「床。滑らない床。人が立てる床」

 白井は口の中でそっと繰り返した。床。立てる。

「……私、床を磨くのは得意じゃありません」

「知ってる。君は床に何を置けるかを考えるタイプだ」

「置くものがなければ、磨く意味もないでしょう」

「置くものはあとで来る。今は床だ」


 研磨を止め、端面を覗く。傷は消えていた。白井は乾いた布で丁寧に拭き、アダプタに接続する。

「測ります」

 OTDRの波形がすっと沈み、反射ピークが小さくなった。

「反射損、零点一二。往復損失二・一八。……通ります」

 白井の声に、矢代は短く「よし」と言った。わずかに肩の力が抜ける。

「ねえ、矢代さん」

「うん」

「この“よし”のために、私たちは何回、濡れて、拭いて、また濡れてるんでしょう」

「数えるか?」

「めんどくさいです」

「だろうな。数えないで済むように、同じ間違いを減らす」


 遠くの方から、別班の無線が微かに届く。――飯田橋のルート、仮設橋梁への浮上管固定完了、の報。

 矢代は腕時計を見た。「予定より十三分遅れだ。十分巻き返せる」

「巻き返す意味、ありますか」白井はつい口に出してしまった。

「ある。人は意味のある遅れより、意味のない遅れに負ける」

「……はい」


 少し、沈黙が降りた。水面がわずかに波打ち、ヘッドランプの光が揺れる。白井は測定器のログを保存し、紙の点検票にも乱れの少ない字で記載した。

「矢代さん、怖くないんですか」

「何が」

「ここにいくら線を戻しても、またいつか、別の何かで壊れることが」

「怖いよ」

 即答だった。白井は意外で、どくんと心臓が鳴るのを感じた。

「怖いけど、怖がる時間は配分だ。怖さに何%割くか、私は毎朝決めている」

「今日は何%ですか」

「二十。疲労に三十、任務に四十、残り一〇で希望だ」

「希望、十ですか。少ない」

「内訳は自由だ。君は?」

 白井は少し考え、照れたように笑った。

「好奇心が三十。不安二十。倦怠二十五。共感十五。希望十」

「倦怠が多いな」

「はい。だから“めんどくさい”って言うんだと思います」

「いい合図だ。倦怠が増えたら声に出せ。声はログになる」


 白井は頷き、ふと上を見上げた。共同溝の天井に走るクラックから、わずかに外気が入り、塩の匂いが薄まる。

「いつか、この“めんどくさい”って感情すら、ログに残らなくなる日が来るんでしょうか」

「来るかもしれない。だが、残らないものは残らない方法で残る」

「どういうことですか」

「たとえば手の動かし方。間の取り方。工具を置く音。言葉以外のものは、しぶとい」


 白井はしばし黙り、それから測定器の蓋を閉じた。

「矢代さん、私、床を磨くのは得意じゃないと言いましたけど」

「うん」

「磨き方は、覚えられる気がします。今なら」

「覚えろ。次の世代に渡すには、言葉より手つきだ」

「はい」


 無線がもう一度鳴り、九段側の接続準備完了が告げられた。

「移動するぞ」矢代が言い、泥の上に足を出す。白井も続く。

 通路の先で、ポンプの音がわずかに小さくなった。水が退いたのだろう。

「矢代さん」

「なんだ」

「今日の希望、分けてもらえますか」

「分けたら薄くなる」

「薄くていいです。味が分かる程度に」

 矢代は少しだけ笑って、ヘッドランプを前に向け直した。

「じゃあ、二%」

「ありがとうございます」

「返せよ」

「え?」

「いつか、倍にして返せ。めんどくさくても」


 白井は短く笑い、頷いた。

 二人は水跡の残る床を踏みしめて進む。足裏で確かめるように、滑らない場所を選びながら。

 天井のクラックから、冷たい空気がまた少しだけ落ちてきた。

 床はまだ濡れている。それでも、たしかに「床」だった。

 その上で、彼らは工具と記録と“めんどくさい”を携えて、次のノードへ向かった

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