第59章 蘭とタンポポの生存戦略:遺伝子と文化の相互作用
手品サークル「アルカナム」の会議室。議題は、神経症傾向の生物学的根拠と、日本人における感受性の高さの進化的な意味へと進む。
課長: 「前回、神経症傾向はストレスに対する反応のばらつきであり、その表現型が男女で異なると結論づけました。では、その敏感さはどこから来るのか。著者は、セロトニントランスポーター遺伝子の長さにその原因があるとしています。この遺伝子にはL型(長い)とS型(短い)があり、S型を持つ人ほど不安やうつ病になりやすい、つまり神経症傾向が高い。伊藤さん、この遺伝子の長さと日本文化の関係を解説してください。」
伊藤さん: 「はい。このトランスポーター遺伝子の分布は、人種・大陸系統で違いがあり、東アジア系、特に日本人は、S型の割合が世界の中で飛び抜けて高いことがわかっています。S型はセロトニン濃度が低く、周囲の刺激に過敏に反応する**『レイニーブレイン(雨の脳)』と呼ばれます。日本人にメランコリー親和型うつ病が多いのも、高い神経症傾向に加えて、集団としてこのS型が多い**からだと説明できます。」
渡辺さん: 「このS型遺伝子を持つ、周囲の刺激に極端に敏感な人が、いわゆるカウンセラーの武田さんが提唱した**『HSP(Highly Sensitive Person)』、日本語で言う『繊細さん』の概念に繋がりますね。五感全て、あるいは特定の感覚が過敏で、満員電車の匂いや換気扇の音で疲れ果ててしまう。これは、同調性の高い濃厚社会において、他者の感情や環境の微細な変化を素早く察知する**ために進化した、適応の結果だと考えられます。」
高橋さん: 「なるほど。遺伝子が文化を規定し、文化が遺伝子の生存を助けるという共進化の物語だね。和食が繊細なのは、集団としてスーパーテイスター(苦味に敏感なS型が多い)が多いため、繊細な味覚が文化として成立したからかもしれない。綺麗好きなのも、嫌悪刺激に敏感なS型が多いことと無関係ではないだろう。」
主任: 「(少し誇らしげに)つまり、俺たち日本人は、本能的に繊細なパーソナリティを持つ**『蘭』だと!俺の胃がキュッとなるのも、課長の突拍子もないアイデアを誰よりも早く、正確に予測し、最悪のコストリスクを検知する高度な能力だったって自己正当化**が成り立つッスね!」
課長: 「その通り、主任。それが著者が提唱する**『蘭とタンポポの理論』です。L型はストレスのある環境でもたくましく育つが、目立たない。一方、S型(蘭)は逆境に弱いが、最適な環境では大輪の花を咲かせる。S型は脆弱な遺伝子**ではなく、可塑的な遺伝子なのです。」
小林さん: 「じゃあ、私たちの手品サークルは、蘭である新入生にとっての最適な環境になれるってことッスか!みんなが過敏さを才能として認めて、大輪の花を咲かせる…ロマンチックッス!」
伊藤さん: 「その通りです。S型遺伝子はネガティブな情報だけでなく、ポジティブな情報にも敏感に反応します。ネガティブな出来事があったとき不利に働く遺伝子が、良いことが起きたときには大きな利益をもたらす。この敏感さを、内向的な人たちが職場のハラスメントではなく、研究やプログラミングといった専門性の高い仕事で活かせるようになったのが、現代社会です。」
佐藤くん: 「(熱意を込めて)ということは、俺の大声と熱狂は、蘭のメンバーに**『ここはストレスフリーの最適環境ッス!』っていうポジティブな刺激を増幅させる拡声器の役割ッスね!蘭を咲かせるタンポポ!最高のコラボレーション**ッス!」
課長: 「(微笑みながら)佐藤くん、あなたはドーパミンのエンジンを全開にした、まさにタンポポ型の外交型です。しかし、この蘭とタンポポの議論は、パーソナリティの分類をさらに複雑にします。外交的なのに悲観的な**『神経質な芸能人』や、内向的なのに楽観的な『物静かな専門職』といった四つの組み合わせが、この理論で説明されます。そして、この複雑なパーソナリティを、私たちは同調性**という社会性の窓から観察します。」
渡辺さん: (ココアを一口飲み)「次章で扱う同調性は、集団の圧力に対する反応のばらつき、つまり**『共同体の部品となるプログラム』の強さですね。ミルグラムの実験やアッシュの実験が示すように、視覚認知さえも集団の圧力で変容する。私たちのマジックが集団的錯覚である以上、この同調性の分布の非対称性**、つまり**『べき分布』**を理解することが不可欠です。」
主任: 「同調性が正規分布じゃなくて、べき分布…!つまり、ほとんどの人は従順だが、ごく少数の巨人がテールを伸ばしている、予測不能な世界ということッスね…。そのロングテールにいるのは、権威に逆らう英雄か、それとも集団から排除される危険分子か…。リスク管理がさらに複雑になるッス…。」
課長: 「次章では、そのべき分布のロングテールにいる人物、すなわち共感力と同調性が低い非社会的なパーソナリティの議論を通して、同調性の本質に迫り、最終的に**『共同体におけるアイデンティティ(キャラ)の役割』**へと結論づけます。解散!」