第58章 損失系と社交の神経:ストレス反応の進化
手品サークル「アルカナム」の会議室。議題は、快の報酬系と対になる、不快を回避する損失系のパーソナリティ、すなわち神経症傾向へと移っている。
課長: 「さて、外向型がアクセル(ドーパミン)の強さなら、神経症傾向はブレーキ(不快・恐怖)の敏感さです。生き物は不快に遭遇した時、エネルギーコストを最小化するように動く。それが逃走(Flight)、闘争(Fight)、そして**硬直(Freeze/死んだふり)の三つのパターン、『3F』**です。」
伊藤さん: 「その通りです。特に注目すべきは、硬直(Freeze)、あるいはシャットダウンです。これは交感神経(闘争・逃走)ではなく、副交感神経(迷走神経)が過度に活性化することで起こります。失神したり、気持ち悪くなったりする反応です。捕食者に死んだふりを装うための進化的に古いシステムであり、エネルギー消費量ゼロの最も賢い戦略です。」
主任: 「(顔が青ざめ、うつむきながら)…シャットダウン。俺がプレゼン中に頭が真っ白になるのは、無意識の防衛本能だったんスね…。心臓がドキドキじゃなくて、胃がキュッとなるのは…副交感神経が、俺を死んだふりさせようとしてる証拠ッスか…俺は本能的に臆病者だというキャラ設定が、また証明されたッスね。」
課長: 「そのシャットダウンこそ、主任、あなたが社会的動物である証拠です。なぜなら、その古い副交感神経の上に、新しい副交感神経が乗っているからです。これがポリヴェーガル理論、多重迷走神経理論の核心。進化の過程で、逃げるか失神するかしかなかった哺乳類が、他者と交流できるように、心を落ち着かせるための社交の神経を追加した。」
渡辺さん: (静かに手を挙げて)「この新しい迷走神経は、横隔膜より上の臓器、つまり顔の筋肉や喉頭(発声)に強く関わっていますね。この神経が活性化すると、私たちは心拍数を下げ、声に抑揚をつけ、相手の表情を読み取ることができる。これが、恐怖や硬直といった原始的な反応を抑制し、社会的な交流を可能にするリラックス効果をもたらす、進化の産物です。」
佐藤くん: 「すげえ!つまり、緊張で声が震えるのは古い神経のせいッスけど、舞台上で笑顔をキープして滑舌よく喋れるのは、新しい神経が**『お前は今、安全な社交の場にいる』って自己正当化の電気信号を送ってるからッスね!最高の身体的マジック**ッス!」
高橋さん: 「この神経系の二重構造こそが、パーソナリティの多様性を生むんだよ。同じストレスを受けても、ある人は闘争(Fight)という暴力や外在化に向かい、ある人はシャットダウン(Freeze/内向化)に向かう。そして神経症傾向そのものには、男女の差がない。ただ、男性は衝動を外に、女性は衝動を内に向けるという、表現型の違いがあるだけだ。」
小林さん: 「それって…神経質な男性がアルコール依存や暴力に走る一方で、神経質な女性はうつ病になりやすいっていう話ッスね…。でも、神経質な旦那さんを持つ奥さんが、旦那さんの浮気を統計的に有意に予測できるっていう実験、あれは怖すぎるッス!」
課長: 「その通り、小林さん。悲観主義的な予言は自己成就する可能性がある。パートナーに**『どうせ私を捨てるんでしょ?』という不安(DMNのネガティブシミュレーション)を向け続けると、相手に『面倒な奴』と思わせて、実際に捨てる理由を与えてしまう。だからこそ、私たちのマジックは、新しい迷走神経を活性化させ、DMNのネガティブな流れを断ち切り、『あなたは群れにとって重要だ』というポジティブな物語を強引に書き換える**必要があるのです。」
伊藤さん: 「そして、恐怖中枢とされてきた扁桃体も、実は**『新規性検知器』だという知見も、この理論を補強します。扁桃体は『予測と違うこと』が起きれば、恐れだけでなく喜びに対しても反応する。環境が複雑になる中で、進化的に効率的な汎用システムとして『新しい何か』に反応するように設計された。私たちのマジックの『驚き』も、扁桃体を介してDMNのネガティブな学習を上書き**できるはずです。」
課長: 「完璧です。次章では、この神経症傾向を、『セロトニントランスポーター遺伝子』の長さという身体的特性と結びつけます。日本人に多い繊細さん(HSP)の遺伝子が、なぜ悲観的でありながら、文化的な優位性を持つのか。蘭とタンポポの理論で議論しましょう。解散!」