第56章 損失系と自己という名の檻
課長: 「前回はドーパミンという期待のエンジン、すなわち報酬系を議論しました。今回は、その対極にある損失系、ビッグファイブでいう神経症傾向(楽観的・悲観的)です。これはネガティブな刺激に対する感度のばらつき、そして**『シミュレーションのネガティブな偏り』**です。」
伊藤さん: 「神経症傾向は、不安や後悔といった形で現れます。しかし、著者が指摘するように、脳は本来楽観主義バイアスを持っています。多くの人は自分は平均以上だと信じ、ポジティブな未来を予測する。この楽観のメガネをかけていないのが、悲観的な人、すなわち神経症傾向の高い人です。」
渡辺さん: 「心理学の抑うつリアリズムの概念ですね。うつ病患者は、健康な人に比べて状況を正しく把握できる。つまり、悲観的な人は現実を正しく見ている。しかし、その真実は、群れ全体の**ナルシシズム(自己愛)**を維持するために、楽観主義者によって排除されてしまう。」
主任: 「(激しく同意し、机を叩く)これッス!俺の慢性的な不安は、ただの神経質じゃないッス!これは**『危険予知システム』として進化的に正しいッス!でも、この本が言うように、このネガティブなシミュレーションが無限ループになると、心が刑務所のようになるッス。なぜ、こんなに後悔や不安**が止まらないんスか?」
課長: 「その無限ループを生み出すのが、脳のデフォルトモードネットワーク(DMN)です。DMNは、私たちが何もしていない時に活発化する、『私』を構築するネットワーク、つまり『過去と未来を結びつける自伝的記憶の物語装置』です。不安やうつは、このDMNが『あの時こうしていたら…』や『将来悲惨なことが起きるに違いない』というネガティブなシミュレーションに過剰に囚われた状態なのです。」
高橋さん: 「まさに**『自己という檻に閉じ込められてしまう』状態だね。そして、幻覚剤(LSD/シロシビン)の作用が示すのは、そのDMNの活動を抑制することで、『自我の消失』を経験させ、心の交通渋滞を解消できるということ。シミュレーションが停止しても意識は残る**。つまり、**『自己はなくてはならないものではない』**という驚くべき洞察だ。」
佐藤くん: 「(興奮して)DMNを抑圧!自己という名の檻から解放!それって、究極の**『脱出マジック』ッスね!末期がん患者の不安が和らぐのも、『自分という檻』から出て、宇宙と一体化する神秘体験を得られるから!俺たちも、新入生に一瞬でもDMNを静止させるような錯覚体験**を提供すべきッス!」
小林さん: 「うーん、でも、外交的で楽観的な明るい人(タイプ1)と、内向的で悲観的な暗い人(タイプ3)っていうステレオタイプは、誰でもイメージできるッスよね。でも、この本が言う、外交的だけど悲観的(タイプ2)とか、内向的だけど楽観的(タイプ4)な人って、実際多いッスか?」
渡辺さん: 「それは独立した特性として存在する、非常に重要なパーソナリティです。外交的/悲観的(タイプ2)の典型が、舞台に上がるときは死ぬほど緊張する芸能人や政治家です。彼らはドーパミン(報酬)を求めるために強い刺激に身を置きますが、損失系(悲観)の感度も極めて高い。この二重の苦痛が、依存症や自殺という悲劇的な結末に繋がることが多い。」
伊藤さん: 「特に男性は、神経症傾向を依存症や衝動的な暴力といった異なる表現型(外在化)で表す傾向があります。これが女性のうつ病罹患率は高いが、男性の自殺率や依存症罹患率が高いという性の非対称性の背景にあります。男は神経質でないのではなく、神経質を暴力や薬物で上書きしているだけなのです。」
課長: 「その通り。私たちのサークルのミッションに戻りましょう。私たちのマジックは、DMNのネガティブなシミュレーションに囚われた新入生を、温かいココアと群れの愛着というオキシトシンによって、ポジティブな未来のシナリオへと強引に書き換えることです。伊藤さん、DMNを一時的に抑制し、自己という檻から解放された新入生に、どのような楽観的な自己正当化の物語を提供すべきか、次の章で詰めていきましょう。」