第44章 意識と無意識の落差
サークル棟の会議室。テーブルには源氏パイの残りカスと、伊藤さんが持ち込んだ脳波測定装置のパンフレットが無造作に置かれている。前回会議で課長が打ち出した「新入生を全員浮遊させる」という計画は、より深い、心理学的な領域へと進んでいた。
主任: (企画書を握りしめ、顔を真っ赤にして叫ぶ)「いいッスか、課長!『一瞬だけ全員が浮いたと錯覚させる』ための経費、音響と照明だけで80万ッスよ!錯覚させるだけの為に、なんでこんなに金が飛ぶッスか!まるで、無意識が財布を支配しているみたいじゃないッスか!」
課長: (余裕たっぷりに、主任の企画書を指先で叩く)「主任。無意識とは、つまり魂のことです。魂に投資するのは当然でしょう?私たちは、新入生のスピリチュアル、つまり無意識が全力で警報アラームを鳴らすような体験を提供しなければならない。高所恐怖症のVRアトラクションを思い出して。意識が『床だ』と知っていても、無意識は『死ぬ』と叫ぶ。この意識と無意識の間に生じる、快感にも似た落差こそが、最高のエンターテイメントなんですよ。」
渡辺さん: (ノートに8つの円を静かに描き終え、鉛筆を置く)「意識が幻想だと認識しても、無意識は現実として受け取る。パーソナリティを形成する8つの要素のうち、恐怖や安全を司る部分に直接働きかける。これは、通常の舞台芸術を超えた、精神への干渉です。」
佐藤くん: (熱心にメモを取っているが、内容がズレている)「精神への干渉!つまり、全身全霊で恐怖を表現すればいいッスね!俺、ジェットコースターに乗ったときの絶叫の練習を100回やります!その悲鳴を無意識にぶつけるッス!」
主任:「佐藤くん、君の悲鳴はただの騒音ッス!今回は視覚と聴覚のトリックッス!…しかし、渡辺さんの言う『8つの要素』って何ッスか?そんな理論、マジックに必要ッスか?」
伊藤さん: 「主任、冷静になって。渡辺さんが言及したのは、ビッグファイブを拡張した、人間の根源的な心理傾向ですね。私たちが目指すのは、彼らの無意識が『浮遊』または『落下』という強い感情的刺激を受けた際に、その原因をマジックに帰属させることです。心理学で言うところの錯誤帰属の応用です。VRアトラクションで失神者が出たのは、無意識への負荷が過大だったから。我々は、そのギリギリのラインを攻める必要があります。」
課長:「伊藤さん、流石です。そう、錯誤帰属。例えば、新入生が『あれ?今、急に体が軽くなった気がした』と感じる。その時、たまたま隣に座っていた人が優しく話しかけてきたとしましょう。すると、その『軽くなった感覚』を、その人の優しさに勘違いしてしまう。これが、錯覚を『愛』や『感動』に転換させる鍵です。」
小林さん: 「愛!カワイイ!じゃあ、その『たまたま隣に座っている人』は、私たちが用意した猫の耳をつけたサクラにしましょう!猫の耳!そして、そのサクラ役の人が、ホットココアを渡すんです!ホットココアの温かさを、浮遊感とセットで記憶に焼き付ける!温かいものは優しい!」
主任:「(愕然として)小林さん!話が飛躍しすぎッス!ホットココアで浮遊感を錯覚させるなんて、カフェイン過剰摂取で倒れるッスよ!しかも猫耳!うちのサークルはマジックサークルッス!キャバクラじゃないッス!」
高橋さん: (静かに煎餅を割りながら)「でもね、主任。温かい飲み物を出すのは、初対面の人への印象を良くするのに効果があるって、本に書いてあったよ。感情と温度の錯誤帰属。嫌な記憶を紙に書いて燃やすのと同じで、恐怖を温かさに流すの。この煎餅だって、カリカリした食感は緊張を解いてくれるんだから。」
課長:「高橋さん、真理です。主任、高橋さんの言う通り、ショーの後に全員に温かい飲み物と、重い資料を配布してください。人は重い資料を持つと、その内容を重要だと感じる。私たちのサークルが、彼らの人生を変える『重い真実』を与えたと錯覚させるんです。」
主任:「重い資料…予算は紙代でまた上がるッス…。そして、温かい飲み物…。わかりましたッス!では、伊藤さん!この『意識と無意識の落差を利用した錯誤帰属イリュージョン』、具体的なギミックの構造はどうするッスか!?錯覚を確実にするための触覚への干渉が必要ッスよね?」
伊藤さん:「触覚への干渉は、短時間で身体の平衡感覚を狂わせる必要があります。視界を一瞬ブラックアウトさせた直後、床の振動と、耳元での低周波音の組み合わせが最適です。無意識は、その振動と低周波音を『地面の消失』、つまり『落下』と誤解釈します。ただし、この低周波音を愛のささやきとして勘違いさせる工夫、つまり小林さんの猫耳サクラ役による音声誘導が必須になります。」
佐藤くん:「俺、低周波音を打ち消すために、全力で歌いますッス!俺の歌声なら、新入生の無意識に直接届くッス!」
課長:「(満足げに頷き、宙に手をかざす)歌は不要です、佐藤くん。あなたの役割は、風です。低周波音と同時に、新入生の頭上に一瞬だけ冷たい風を当てる。冷たさは孤独や疎外感を連想させますが、その直後に猫耳サクラのホットココアが与えられることで、『サークルに入れば、孤独から救われる』という強烈な心理的刷り込みが完了します。」
主任:「…冷たい風の予算、追加ッスか。もういいッス。俺はもう、手品サークルじゃなくて、心理兵器開発サークルの主任ッス…。渡辺さん、この計画、本当に成功するッスか?」
渡辺さん:「(8つの丸が描かれたノートを見つめながら)感情は、常に物理的な刺激に引きずられる。それが人間の仕組みです。この計画は、無意識という名の魂を、錯覚という名の科学で釣り上げる。確率は、50%と、8分の1です。」
小林さん:「8分の1?ってことは、8人のうち1人は必ず浮くってことですよね!カワイイ!じゃあ、その浮いた人には、宇宙遊泳してる猫のシールをプレゼントしましょう!」
課長は、冷たい風と温かいココア、そして猫耳の組み合わせが、新入生の無意識の傾向を確実に掴むと確信していた。
主任:「…猫のシールと宇宙遊泳は、もう諦めてくれッス……。」