第34章 『頭が良くなるとはどういうことか
「はぁ…頭が良くなるって、遺伝子ガチャで決まるってことなんですか…?」と、小林さんが新しい手品を練習する手を止め、不安そうに渡辺さんに尋ねた。
渡辺さんは、本から顔を上げることなく、淡々と答えた。「第2章のテーマは、『頭が良くなるとはどういうことか』です。この章では、知能と人種、社会階層の関係について論じられています」
課長は、トランプを器用に操りながら「知能と人種?それって、なんか、すごく危ない話じゃない?」と眉をひそめた。
「そうですね。著者は、ノーベル賞を受賞したジェームズ・ワトソンの発言を引用しています。ワトソンは、アフリカ人の知能が白人やアジア人より低いという遺伝的な仮説を述べ、物議を醸しました」と、伊藤さんが静かに解説した。
主任は、佐藤くんにコインマジックの種を教えていたが、その話に驚き、コインを落とした。「そんなことを言ったんですか!?それって、差別ですよね?」
「著者は、感情的な批判ではなく、科学的なデータに基づいてこの問題を検証しています」と、渡辺さんは言った。
「アメリカの貧困層向けの教育プログラム『ヘッドスタート』が、子どもたちの知能を伸ばすという目的で始まったのですが、その効果は一時的なものに留まり、数年後には元の状態に戻ってしまうという研究結果を紹介しています」
「ええ?じゃあ、努力して勉強しても、元々の頭の良さがなければ意味ないってことですか?」と、小林さんはますます不安になった。
高橋さんは、静かに頷いた。「つまり、環境決定論は間違っている、と言っているわけね。知能の大部分が遺伝で決まるなら、貧困を教育で解決しようとするのは非効率的だ、と」
「まさにその通りです」と、渡辺さんは高橋さんの言葉に少しだけ反応した。「著者は、アメリカの経済格差は、人種によるものではなく、知能の格差に起因すると主張しています。高い知能を持つ親は社会的に成功し、その遺伝的特性が子どもに引き継がれ、結果的に高学歴になるという『疑似相関』を指摘しているのです」
佐藤くんが恐る恐る口を開いた。「じゃあ、僕みたいに、全然頭良くない人間は、将来どうすればいいんですか…?」
「著者は、悲観的な結論だけを提示しているわけではありません」と、伊藤さんが優しく言った。「この章では、なぜユダヤ人やアジア系の人々が高い知能を持つのか、という仮説も紹介されています。それは、厳しい差別環境への遺伝的適応や、セロトニントランスポーター遺伝子の分布といった、生物学的な要因で説明できるかもしれない、と」
課長は腕を組み、考え込んだ。「なるほどね…。でも、そういうのって、なんかモヤモヤするわ。努力は報われるって信じていたのに…」
「著者は、その『信じる心』こそが、真実から目を背けさせている原因だと述べています」と、渡辺さんは淡々と続けた。「不都合な事実を直視することで、私たちはより現実的な社会を築くことができる。それが、この本の主張です」
小林さんが、少し顔を上げて言った。「でも、たとえ遺伝で決まるとしても、私、手品は頑張りたいです!努力する過程で、新しい自分が見つかるかもしれないし…」
主任が優しく言った。「そうだね、小林さん。それに、手品は知能だけじゃなくて、練習や工夫、そして何より楽しむ心が大事だよ。僕は、このサークルに来て、それが分かったよ」
課長は、再びトランプをシャッフルしながら、笑顔で言った。「そうね、そうよ!私は、渡辺さんのこの本のおかげで、また一つ新しい魔法を見つけたわ。それはね…『自分を信じる魔法』よ!遺伝とか、そんなの関係ない!みんな、今日も一日、頑張るわよ!」
サークルメンバーたちは、課長の言葉に笑顔で頷いた。渡辺さんは、そんな彼らを静かに見つめ、再び本に目を落とした。彼女の表情は相変わらず変わらなかったが、その手には、新しい知識という名の「魔法のタネ」が確かに握られていた。