第33章 努力は遺伝に勝てないのか?
「これは不愉快な本だ。気分良く一日を終えたい人は読まない方がいい」と、渡辺さんがいつもの無表情で言った。
手品サークルの部室で、課長が新しいトランプの束を広げながら、「渡辺さん、また変な本読んでるわねぇ。そんな怖い本、手品サークルに持ち込まないでよ」とからかうように言った。
小林さんは、新しい手品を練習しているらしく、シルクハットから次々と花を出すことに夢中になっていたが、渡辺さんの言葉に反応した。「怖い本?どんな内容なんですか、渡辺さん。私、そういうのちょっと苦手かも…」。彼女は少し不安そうな顔で、花束を揺らした。
高橋さんは、いつものように冷静だ。「野田さん…、もとい、渡辺さんの言うことだから、どうせ科学的な話でしょ。不愉快って言っても、オカルトじゃないんだから大丈夫よ」と、冷静に、しかし少し面白そうに微笑んだ。
主任は、新しく入ったメンバーの佐藤くんにマジックの種を教えている最中だったが、二人の会話に耳を傾けていた。「そうですね、渡辺さんの話はいつも理詰めで、僕にはちょっと難しいです。でも、興味深いんですよね」。佐藤くんは、渡辺さんの独特な雰囲気に少し圧倒されつつも、関心を示した。
伊藤さんが、静かに話を続けた。「その本、私も少し知っています。進化論と人間の行動に関する本ですよね。著者は、テレビや雑誌の耳障りの良い言葉を批判して、世の中の理不尽さを科学的に解き明かす、って言ってますよね。すごく賛否両論あるみたいですけど…」。彼女は物静かで、博識な雰囲気があった。
課長は、トランプをシャッフルする手を止め、渡辺さんに向き直った。「それで?その『不愉快な真実』って何なのよ?私、そういうの、むしろ聞きたいわ」。課長の目はキラキラと輝いている。彼女は新しい知識や挑戦に、いつも前向きだ。
渡辺さんは、淡々と話し始めた。「人は、幸福になるために生きている。しかし、幸福になるようにデザインされているわけではない。これが著者の結論です」。
課長は少し不機嫌そうに言った。「それってどういうこと?じゃあ、私たちが手品を練習して、みんなを笑顔にしようって頑張ってるのも無駄ってこと?」
渡辺さんは無表情のまま、「著者は、人の心も進化によってデザインされた、と主張しています。喜びや悲しみ、愛情や憎しみも、すべて進化の枠組みで理解できるはずだ、と」と答えた。
「じゃあ、この本には何が書いてあるんですか?」と、佐藤くんが恐る恐る尋ねた。
渡辺さんは静かに話し続けた。「第1章は、**『努力は遺伝に勝てないのか?』**というテーマです」。
第1章:努力は遺伝に勝てないのか?
渡辺さん:「まず、体型や性格、能力が親から子へと遺伝することは、昔から知られていました。でも、多くの人は『努力や環境で乗り越えられるはずだ』と考えています。特に知能や成績は、本人の努力次第でどうにかなるという考えが強い。でも、著者はこれを真っ向から否定しています。」
小林さん:「えーっ、そうなんですか?私、手品も努力次第で上手くなれると思ってたのに…」
高橋さん:「遺伝の影響があるのは当然でしょう。でも、渡辺さんは遺伝がすべてだとでも言うの?」
渡辺さん:「著者は、知能(IQ)の7割から8割は遺伝で決まると述べています。これは行動遺伝学という学問分野の双生児研究で明らかになった事実です。養子に出された一卵性双生児を調べると、異なる環境で育っても、性格や知能が驚くほど似ているというデータがあります。」
主任:「それはすごいですね…。ということは、僕が手品が下手なのも、遺伝のせいってことですか?」主任は肩を落とした。
伊藤さん:「そう簡単には割り切れないと思いますよ。でも、佐世保の女子高生殺人事件を例に、極端な異常行動の背景に**反社会性の遺伝率が96%**という驚くべきデータがある、と本には書かれていますね。環境の影響はわずか2割弱で、しかもそれは子育てではなく、友達関係のような非共有環境だと言われています。」
課長:「待って、待って!じゃあ、その女子高生の父親が、娘を一人暮らしさせてたのが悪いって批判されたのは、全くの見当違いってこと?」
渡辺さん:「著者は、世間が『異常な犯罪には何らかの理由があるはずだ』という不安に耐えられないため、親をスケープゴートにした、と説明しています。つまり、犯罪の原因を環境(子育て)に求め、親に責任を負わせることで安心しようとしている、と。」
小林さん:「うわあ…、すごく嫌な話ですね。でも、もし本当に遺伝で決まるなら、頑張っても意味ないって思っちゃう…。」
渡辺さん:「著者は、努力が全て無駄だと言っているわけではありません。むしろ、この事実を直視することで、私たちはより現実的で効果的な対策を立てられると主張しています。例えば、統合失調症のような精神病が遺伝する事実を当事者が知っていれば、出産という大切な決断をより正しい知識に基づいて行えるかもしれません。」
課長:「なんか、スッキリしたわ。そうよね、頑張ってもどうにもならないことはある。でも、それを知ってるか知らないかで、人生の選択肢が変わるってことね。よし、私の手品も遺伝子が許す限り、頑張ってマスターするわよ!」
主任:「そうですね、僕もめげずに頑張ります!いつか課長に負けないくらい、マジックを上達させてみせます!」
サークルメンバーは、渡辺さんの放った「不愉快な真実」に一瞬は戸惑ったものの、それぞれの解釈で前向きな姿勢を見せた。渡辺さんは、そんな彼らの様子を静かに見つめ、再び本を読み始めた。