第30章 《仮想中継局 ― 空から降ろす都市の神経線》
午前5時12分。
都庁第一本庁舎の屋上デッキ。気温9.4℃、風速3.8m/s。
湿った潮の匂いがまだ残っていた。東京湾の半分は、いまだに海水と瓦礫で覆われている。
地下通信管路の大半は冠水し、電力供給ルートも地中短絡。
つまり――東京は、物理的に沈黙していた。
そこに積み上げられた銀色のケース群。中には、**フライアウェイ型Ku帯衛星アンテナ(98cm反射鏡)**と、LEO衛星通信端末(平面アレイ)。
ケースには黒マジックで書かれていた。
《防災庁・通信再生班/機密区分C》
野田技監は手袋を外し、錆びた固定具に触れる。まだ潮を含んでいる。
「仰角42度、方位112度。ビーコンサーチ開始」
通信庁の鷹野主任が即答する。彼女の視線の先で、モデムの信号灯が緑に変わった。
「キャリアロック。BER(誤り率)10⁻⁷まで落ちた。通せます」
「よし、LEOもトラッキング開始」
空をかすめる衛星の軌跡が、監視画面上で細い弧を描いた。
往復遅延36ミリ秒。 それが都市に戻った最初の数字だった。
■ 通信の「背骨」を空に引く
地上網が沈んだ東京に、彼らは仮想のバックボーンを創ろうとしていた。
構成図はシンプルだが、奇跡的なバランスで成り立つ。
1. 都庁屋上 → LEO衛星(Low Earth Orbit) → 長野地上局
2. 長野 → 名古屋 → 大阪 → 国内IX(インターネット中核)
3. 戻り通信 → 港区高台の仮設マイクロ波塔(23GHz帯) → 新宿DC(仮設データセンター)
LEO衛星は高速だが、軌道を移動する。90分で地球を一周し、上空を通過するのは数分間だけ。
「だから“繋ぎっぱなし”は不可能。常にバトンリレーだ」
野田はルータログを指差しながら言う。
彼らが採用しているのは、NASAでも用いられているDTN(Delay Tolerant Network)方式。
データをいったん貯めて、衛星が来た瞬間に一気に吐き出す。
――都市の“呼吸”を、衛星の軌道リズムに合わせて再生する仕組みだった。
■ 帯域と優先度 ― 生き残る通信のルール
都庁庁舎内では、通信の優先順位を厳格に定義していた。
「人命通信>行政指令>医療データ>報道>一般通信」
オペレーターが設定したQoS(品質制御)ポリシーを確認する。
音声通話(SIP/RTP)は最優先キューに、
医療系トリアージDBと行政WANは優先トラフィック、
動画やSNS系は512kbps制限。
「帯域が足りないなら、“届けるべき情報”から通せ」
野田の声に、若手隊員が頷く。
通信は民主的ではない。生存優先の独裁だ。
■ マイクロ波塔 ― 海の上を跳ねる電波
同時刻、港区芝公園の仮設通信塔。
三十メートルのトラスが、まだ鉄骨の赤錆を見せていた。
アンテナは23GHz帯の1.2mパラボラ。見通し距離7.2km、新宿副都心を狙う。
「アジマス156度、固定完了。MIMOリンク成立」
通信兵が報告。
野田の耳に無線が入る。「リンクマージン−3.5dB、安定。フェージング対策で2偏波交差」
突然の雨で信号が落ちれば、自動で11GHz帯サブルートに切り替わる。
フェードマージンは計算済み。
「台風でも落ちないラインだ。……よくやった」
マイクロ波の微弱な震えが、空気を震わせて都市を横断していく。
電波は、沈んだ都心の上空で再び“声”を運び始めた。
■ 電源の現実 ― 電波よりも重い課題
通信が通っても、電気がなければ意味がない。
都庁の自家発電設備は海水で使用不能。
現在の電源構成は、
- 陸自発電車:25kVA ディーゼル式 ×2
- 燃料電池(リン酸型)2kW ×2
- 太陽光パネル(仮設)3kW/蓄電LiFePO₄ 20kWh
深夜電力はバッテリーモードへ自動移行。
「LEOは電力食う。夜間は一系統だけ稼働させる」
鷹野は消灯を命じ、屋上に青いLEDだけが残る。
機材は命を繋ぐが、電力は命そのものだった。
■ 空からの救援 ― 成層圏の通信機
午後、HAPS(高高度プラットフォーム)の通信が始動した。
防衛装備庁の試験機が高度18kmで旋回し、Ka帯の光中継を降ろしている。
地上の受信は都庁の屋上に設置した光通信ターミナル(OCT-5K)。
雲の切れ間を縫うように、赤外ビームが屋上のセンサーヘッドを正確に照射する。
「リンク確立、受信C/N比26dB」
鷹野の声が上がる。
都庁の仮設Wi-Fi(sXGP小セル)が順に点灯。
避難所、仮設病院、庁舎の端末――全てが、数分後にオンラインに戻った。
誰も拍手しない。
ただ、画面上の通信ログを無言で見つめていた。
Tokyo Emergency Net — STATUS: STABLE
■ そして、「声」が戻る
夕刻。
鷹野の端末が鳴った。
発信元は長野広域通信センター。
音声通話はまだノイズまみれだったが、確かに人の声が聞こえた。
「――東京、応答願います。こちら長野」
鷹野は一瞬だけ息を呑み、ヘッドセットを取る。
「こちら東京。受信良好。生存を確認」
たったその一言で、通信室の空気が変わった。
誰も歓声は上げない。ただ、息を吐く音がいくつも重なった。
それは、**三ヶ月ぶりの“生きた往復”**だった。
■ 都市の再呼吸
夜22時14分。
監視端末のステータスバーに、新しい行が浮かんだ。
[22:14:03] Virtual Tokyo Network — STATUS: PARTIAL ONLINE
都庁屋上の風速は4.1m/s。アンテナは安定。
港区のマイクロ波塔も正常。
「空の線、3本。地上の光、1本。……これで都市の神経は繋がった」
野田は報告書に書き加えた。
《冗長度:3系統(LEO×2/HAPS×1/μWave×1) 稼働率92% 電力残量:18%》
彼はノートの余白に小さく書いた。
> “都市は、呼吸を取り戻した。”
夜の屋上で、風に鳴るのはガイロープの音だけだった。
だが、確かにそこに“心臓の鼓動”のような低い振動があった。
空を渡る電波が、沈んだ都市の上を静かに通っていた。
■ 技術補遺(現実設定に基づく)
•LEO衛星通信:Starlink/GX-LEO級。遅延35–50ms、可視時間5分前後。
•Ku帯VSAT:上り600ms遅延、EIRP 52dBW、地上局設置済み。
•マイクロ波リンク:23GHz(主系)、11GHz(補系)。雨域減衰考慮し−3dBマージン。
•HAPS光通信:Ka帯双方向、C/N比25dB以上で1Gbps級。
•電源:ディーゼル+燃料電池+太陽光+LiFePO₄蓄電(総系統独立運転)。
•通信プロトコル:DTN(BPv7) over UDP/IPsec-GRE、QoS多段制御。