第29章 《断線都市》
東京の空が焦げた日から、九十日が経っていた。
霞ヶ関上空で炸裂した十五キロトンの核弾頭は、光より速く街の神経を焼き尽くした。EMP――電磁パルス。電線という電線が閃光のような電流を吐き、信号制御盤も中継局も同時に沈黙した。
その直後、相模トラフを震源とする巨大地震が湾岸を襲い、津波が東京湾を遡上した。地下の共同溝は海水に沈み、通信管路は泥と腐敗臭に満たされた。電波も光も、水の底では意味を失った。
――いま、この街は、世界から切り離された巨大な沈黙体だった。
新宿都庁の屋上に仮設のパラボラアンテナが立っていた。
NTT東京復旧統括班の主任技師、野田は防塵マスク越しに湾岸を見下ろす。視界の先、豊洲も芝浦もまだ茶色い水面に覆われ、ビルの谷間では時おり白い蒸気が立ち上っていた。
野田の背中には、海水をかぶった光ファイバーケーブルが二巻き。皮膜の裂けた部分からは、内部のガラス繊維が露出して白く光っている。それが、この都市の“神経”だった。
「共同溝の中、まだ水抜けきってません。三丁目の管路、塩分濃度が二パーセント超えてます」
若手の技術員が声を上げた。
「くそ、ケーブルが腐る……」
野田は短くうなり、地下の映像モニターに目をやった。
配線の束が泥に半ば埋もれ、所々で赤い腐食斑が浮かんでいる。水温は二十二度。高すぎる。塩と熱とバクテリアが、残された設備を分解していく。
だが、彼らには時間がなかった。
通信の断絶は、行政指令・医療搬送・物流システムのすべてを麻痺させていた。
それは都市の心臓が止まったに等しい。
都庁地下三階の指令室では、通信庁・自衛隊通信団・都建設局・NTTの合同指揮班が昼夜を問わず稼働していた。机の上に広げられたのは「首都通信断絶マップ」。
赤=完全断線、黄=断続、青=通話確保。
都心部はほぼ真紅だった。
「光ケーブル自体は無事なんだ。ガラスは電磁波を通さない。問題は中継器とOLTだ」
通信庁の防衛技官・鷹野が言った。
「EMPで全部焼けたんですか」
「ほぼな。EMPは一瞬だが、機器の制御ICをすべて過電流で吹き飛ばす。ここにあるONU(光回線終端装置)は、見事に全損だ」
彼女はテーブルに焦げた黒い装置を置いた。金属の筐体が変形し、基板上のチップが溶けている。
「ファイバーは生きてる。でも“光を電気に変える脳”が死んだ。今の東京は、神経が生きていて、脳が焼けた状態だ」
沈黙が落ちた。
遠くで換気ファンの低い唸りだけが聞こえた。
野田は腕を組み、地図の中央――霞ヶ関――を見つめた。
あの場所には、三つの通信共同溝が集中している。大手町・日比谷・赤坂を結ぶ幹線ルート。
そこが吹き飛べば、都心から地方へのすべての光路が途絶する。
「……地下を捨てるしかないな」
野田がぽつりと言った。
鷹野が顔を上げる。「どういう意味です?」
「地下管路は塩水にやられた。浸水は半年引かない。だったら――地上に“仮設光”を張る」
「仮設光?」
「そうだ。地上ルートの高架橋、残ってるやつを使う。既設の電力線ルートに共架する。
それと……光ファイバーを“再点灯”するんだ。死んでないなら、光を通せるはずだ」
会議室の空気が少し動いた。
「ただし、復旧信号は通常のTCP/IPじゃ無理だ。ルートもノードも断続してる」
鷹野が頷いた。「DTNプロトコルね。遅延許容型通信。ネットが途切れても、パケットが次のノードを待つ」
「そう。地上ルートと衛星リンクの組み合わせなら、メッセージは“届く”」
「届く……か」
誰かが呟いた。
午後、野田たちは霞ヶ関の共同溝入口に降りた。
入口はコンクリートで補修され、警備隊が放射線測定を行っている。
地下三十メートル。
ライトに照らされたトンネルの壁には、無数の通信ケーブルが絡み合っていた。被覆が裂け、ところどころに緑の藻が生えている。海の匂いと焦げた電子の匂いが混じる。
「温度、二十八度。湿度八十七パーセント。カビだらけだ」
防水スーツの作業員が呟く。
野田はケーブルの一本を手に取り、被覆をカッターで割った。中からガラス繊維が現れ、かすかに光を返した。
「生きてる……」
彼は呟いた。
光そのものは何も語らないが、それが再び都市に信号を流す唯一の希望だった。
夕刻。都庁の屋上に戻ると、風が冷たくなっていた。
鷹野がパラボラの角度を調整している。
衛星リンクを仮接続し、試験的に「バーチャルルータ」を起動する。
電源は仮設ディーゼル、発電量はわずか三キロワット。
モニターの中で、灰色だった回線マップにひとつだけ青い線が浮かび上がった。
「――繋がった?」
技師が息をのむ。
鷹野は無言でモニターを見つめた。
ログが流れる。PING RESPONSE: 122.208.41.3 — 420ms
「……繋がった」
誰かが呟いた。
小さな歓声。誰も拍手はしなかった。ただ、目の奥に一瞬の光が宿った。
野田は屋上の縁に立ち、暗い東京湾を見下ろした。
街はまだ沈黙している。だが、一本の光ファイバーが確かに応答した。
彼は無線機を取り出し、静かに言った。
「こちら新宿、第一次試験回線、復旧確認。
……東京、まだ死んじゃいない。」
空の彼方、雲の切れ間から、わずかに白い星がのぞいていた。
その星は、通信衛星ではなかった。
だが、彼らにとってはそれが――
最初に戻った「光」だった