第28章 《炎の記憶 ― 初点火試験》
午前七時。
台東区・浅草橋の仮設配給所。
夜明けの光が金属の防爆ボンベを鈍く照らしていた。
周囲の家々はまだ泥にまみれ、道路脇には膨張した舗装が折れ曲がっている。
津波が去ってから六日、ここが首都圏で初めての都市ガス再点火試験区域に指定された。
「中圧幹線からの減圧完了。末端圧力2.4キロパスカル。
リークテスト開始します」
東京ガス復旧班の班長、佐伯俊技監が声を上げた。
オペレーターがPE管接合部に試験用の圧力計を取り付ける。
スチール管との接合部には融着マーキング、耐圧弁が2重で組まれている。
「テスト圧3.0キロ。5分保持」
全員が息を潜めた。
温度補正をかけながらゲージを確認。針は微動だにしない。
「圧力低下なし。漏洩ゼロ」
「よし、通ガス準備に入る」
作業員たちは路上に組まれた仮設配管の上に膝をつき、
末端バルブの周囲を再度検査した。
水没地帯特有の硫黄臭がまだ残っている。
ガス検知器(EX-T02)は0ppmを示していた。
佐伯が指示を出す。
「主バルブ、開弁角10度。ゆっくり上げていけ」
中圧から低圧系統へ、ガスが送り出される。
マンホール内で、わずかに空気が押し出される音がする。
「流量計反応あり。圧上昇0.5、0.8……安定2.4キロ」
「低圧系、圧力確認。OK」
矢代中佐が立会人として腕時計を見た。
「……よし。供給安定を確認。試験点火を開始せよ」
作業班の若い技師が、炊き出し用の仮設コンロをセットした。
防爆仕様の鋼製ボディに、点火電極と遮断弁が組み込まれている。
佐伯が安全確認を読み上げる。
「周囲可燃物なし。ガス濃度0ppm。換気良好。点火準備――」
若い技師がスイッチを押した。
――乾いたクリック音。
次の瞬間、コンロの口先から青白い炎が立ち上がった。
誰も声を出さない。
炎は静かに揺れ、安定した。
「燃焼温度740℃。酸素比1.02。正常燃焼」
佐伯がモニターの数字を読み上げた。
矢代が短く息を吐く。
「……これで、市街地の調理設備が再開できる」
その場にいた全員が、一瞬だけ黙祷のように炎を見つめた。
この六日間、被災区の避難所では冷たい食事しか出せなかった。
湯気を上げる味噌汁の匂いが、少しずつ風に混ざって広がっていく。
唐木顧問が、炎の色を確認する。
「CO残留ゼロだな。燃焼安定域に入ってる」
「はい。全域同様に供給できます」
佐伯が頷く。
「ただし、本系統接続はまだ早い。今日の段階では生活拠点限定」
「わかってる。まずは“火のライン”を守る」矢代が答えた。
午前八時、再点火式の記録データが送信された。
圧力、流量、燃焼温度、CO濃度――全て正常。
遠隔監視センターのSCADAにも、
浅草橋区画の供給ステータスが緑に変わる。
現場にいた作業員が、小さくつぶやいた。
「これで、朝飯が温かく食えるな」
その声に、周りの誰も笑わなかった。
だが全員が、静かに頷いた。
それが、都市に“日常”が戻る最初の瞬間だった。