第26章 《呼吸の復旧》
夜明け前、江東区・木場の地中で微かな空気の震えが起きた。
震源は相模原トラフ――あの日、東京のガス幹線は広範囲で沈黙し、
都市の呼吸は止まった。
今、その“肺”が再び息を吹き返そうとしている。
現場指揮車のモニターには、ガス圧曲線が表示されている。
「圧力ゼロ。ガバナーA・Bとも閉鎖中。復圧工程に入ります」
報告するのは、東京ガス技監の佐伯俊。
彼の前に広がる仮設ピットの底――
直径600mmの鋼管が、泥の中から顔を出している。
表面のポリエチレン被覆には、津波の砂がまだこびりついていた。
「破断部、南西50メートル先。交換完了済み」
「接合確認――融着温度220℃、保持5分。圧試1.5MPa、漏洩なし」
矢代中佐が記録端末に印をつけた。
「よし、一次減圧を0.3メガでかけろ」
「了解。一次ガバナー、開弁角10度」
操作盤のスイッチが押され、油圧アクチュエーターがゆっくり動く。
鋼管の奥から、かすかな風切り音――圧縮ガスが通り始めた合図だ。
モニターの圧力針がわずかに上昇する。
0.05、0.1、0.2MPa……。
「圧力上昇安定。脈動なし」
佐伯の声は落ち着いている。
だがその横で唐木慎吾顧問は、土の匂いを嗅ぐように空気を吸い込んだ。
「……わかるか? この匂い。都市が呼吸を始めた匂いだ」
再加圧中、作業員がガス漏洩センサーを構える。
光学式嗅覚ユニット《Sniffer-12》。
微量のメタンを赤外線スペクトルで検知し、警報が鳴れば自動で弁が閉じる。
「異常検知ゼロ。温度勾配安定」
「よし、0.3で維持。二次ラインの減圧弁へ」
中圧幹線から低圧配管へと流す前に、もう一段階の“呼吸調整”がある。
それが、地区ごとのガバナーステーションだ。
そこには、巨大なバネ式調圧器と安全弁、流量計が並び、
ガス圧を0.3MPaから2.5kPaまで落とす。
「バルブB-3、開弁角20度。流量100立方メートル毎時」
「応答良好。圧力安定帯に入った」
制御盤のLEDが緑に変わる。
唐木が手元のタブレットで、地中配管の3Dモデルを拡大する。
中圧線(φ300PE)から枝分かれし、住宅街を這うように走る低圧支管。
それぞれが可とう継手で繋がり、柔らかくたわみながら呼吸しているように見える。
「PE管はいいな。金属のように疲労しない。まるで軟骨だ」
「都市の骨格だよ」矢代が呟いた。
「これが折れたら、どんな文明も息ができない」
復圧から三時間後。
東陽町の避難所にある炊き出し用仮設コンロに、試験用のガスが通された。
佐伯が立ち会い、点火スイッチを押す。
――一瞬の沈黙。
続いて、青い炎が小さく灯った。
「着火確認! 圧力2.3キロパスカル、安定!」
歓声が上がる。
白い蒸気が立ちのぼり、味噌汁の匂いが風に混じる。
唐木が笑った。
「水が流れ、電気が灯り、火が戻った。これで東京は、生き返った」
矢代は炎を見つめた。
青く、静かで、規則正しい。
それは文明の心拍そのものだった