第25章 《清浄圧の夜明け》
夜の金町浄水場。
再起動を告げるブザーが鳴ると、敷地全体が低い唸りに包まれた。
空はまだ曇り、風にはわずかに潮の匂いが混じる。
湾岸の津波が去ってから四週間、
この巨大な“水の工場”は沈黙していた。
矢代隆一中佐は制御棟の窓から、ゆっくりと夜景を見下ろした。
広大な沈澱池の水面が、投光灯に照らされて銀色に光る。
「原水ポンプ、起動」
機械音が遠くから響いた。
ポンプ室の床が微かに振動し、
利根川の水が、再び都市へ向かって吸い上げられる。
「取水圧、0.8MPa上昇。フロー安定しました」
通信に佐伯俊の声。
彼は今、急速ろ過棟にいた。
「オゾン反応塔の酸素濃度、28%。
オゾン濃度制御弁、開度15度。電極電流、正常」
高圧電極で発生したオゾンが、
灰色のガス管を通って水中に吹き込まれる。
細かな気泡が水を白く染め、
化学反応で有機物と匂いを分解していく。
「反応時間、10分。続いて活性炭層へ」
唐木慎吾顧問は活性炭再充填エリアに立っていた。
黒い粒子が搬送ベルトの上を流れ、塔の上部からざらざらと落ちていく。
「新炭充填率、85%。比重0.48。吸着能、規格内」
かつて津波の塩水で炭層が凝固し、
ろ過塔全体が“岩のように”固まっていた。
それを全部砕き、乾燥させ、再装填するのに丸二週間。
唐木は手袋を外し、黒い炭粒を指でつまんだ。
「……生きてる。炭も呼吸してるな」
深夜0時。
処理水ラインに初めての水が通された。
制御室のパネルに緑のランプが並ぶ。
「浄水流量、1.2立方/秒。残留塩素、0.25mg/L。
pH7.2、濁度0.03度、電気伝導率350μS/cm」
佐伯が声を上げる。
「すべて正常値! 浄水ライン、復活です!」
矢代は静かに頷いた。
「では、配水池へ送れ。――東京に“飲める水”を戻す」
大型の送水ポンプが動き出す。
直径2メートルの鋼製送水管に、水が押し込まれていく。
振動が地面を伝い、深夜の空気に重く響く。
その先――代々木、高輪、白金の配水池へ。
SCADAのマップ上で、青いラインが再び点を結んでいく。
「水頭圧、1.4MPa。流量正常」
「配水ブロックA、開弁開始」
遠くの住宅地。
停電で沈んでいたアパートの一室。
非常灯の下、避難帰還者の女性が蛇口を回した。
カラン、と乾いた音。
しばらくの沈黙。
そして――細い水流が、静かに流れ出す。
透明で、冷たく、ほんの少し金属の匂い。
彼女は思わず両手で水をすくい、そのまま頬を濡らした。
「……水、戻ったんだ」
同じ瞬間、制御室では唐木が計器を見つめていた。
「水質センサー、異常なし。AI解析値、適正範囲。
東京水、飲用復帰」
矢代は黙って立ち上がった。
窓の外、広い沈澱池の向こうで朝が始まっている。
東の空が、わずかに青く染まり始めていた。
唐木が帽子を脱ぎ、静かに言った。
「これで東京は、また“水の都市”に戻ったな」
矢代は頷いた。
「光も、電気も、言葉も――すべてはこの一滴の上に成り立っている」
沈澱池の水面に朝日が映り、ゆらめく光が制御塔の壁を照らす。
それはまるで、再生した文明の“初めの鼓動”のようだった。