第24章 《配水区の蘇生》
正午を少し過ぎた頃、代々木の高台にある第一配水池のコンクリート壁が、太陽の熱で白く光っていた。
津波が湾岸を襲った日、ここも地震で地盤が1.8センチ沈下し、配水路の一部が歪んでいた。
だがいま、東京の“水の心臓”は再び鼓動を取り戻そうとしている。
「配水池の水位、12.3メートル。流入安定」
技師の報告を受け、佐伯俊が端末を操作した。
「圧力監視バルブ、A系統開放。南新宿ブロックへ試験送水を開始する」
彼の背後には、10基のステンレス製制御弁が整然と並んでいた。
それぞれが“動脈の分岐点”だ。
弁の駆動モーターはサーボ制御、開閉角度は0.1度単位。
SCADAのAIは、リアルタイムで水圧の脈動を解析し、異常を自動補正する。
モニター上の地図では、代々木から渋谷・新宿方面へ、青いラインが伸びていく。
「水頭圧1.2MPa、流量2.1立方メートル毎秒。よし、落差計算通りだ」
矢代隆一中佐が頷く。
「下層の配水本管の材質は?」
「ダクタイル鋳鉄管、φ400〜600mm。全区間、耐震継手DIP管に更新済みです」
「ならば安心だな」
地中では、太い水の道がゆっくりと目を覚ましつつあった。
地下5〜10メートルの層。
電力や通信よりやや深く、下水よりも上。
管壁にはゴムスリーブ継手、外周には防食ポリエチレン被覆。
水が通るたび、鋳鉄が低く共鳴し、地面の下を“心音”のような響きが伝わる。
唐木慎吾顧問は腕を組み、圧力グラフを見つめていた。
「……まだ“呼吸”が浅いな」
「ええ。配水区の末端が閉じたままです。ブロック化が仇になってますね」
唐木は頷く。
「分散制御は災害時の命綱だが、統合時には逆に足かせになる。――これが都市の代謝の難しさだ」
AI制御センターでは、都市全域の水圧データが立体的に描かれていた。
標高・流量・弁開度がリアルタイムで変化し、
“都市の血圧地図”がスクリーンに投影されている。
「圧力ゾーンCを5%上げます。渋谷ブロック、流量を許可」
「了解。A–12弁、開度15度」
操作員がタッチパネルを押すと、遠くの弁が静かに動いた。
その瞬間、地中の音が変わった。
空気の抜ける「ボン」という音のあと、鋳鉄の内部で水流が走る。
都市の下を、冷たい水が動いている。
地下街の柱の奥で、古い配水管がわずかに震えた。
「渋谷地区、流量1.5立方。圧力安定!」
報告が響く。
矢代は腕時計を見た。
「予定より40分早いな」
「さすがは重力配水ですね。電気が止まっても、丘陵の貯水は落差で動く」
唐木が笑う。
「東京の地形そのものが、最大の蓄電池だからな」
午後2時。
渋谷消防署の前に設けられた臨時給水栓で、最初の蛇口が開かれた。
金属音のあと、白く泡立つ水が噴き出す。
長い空気抜けののち、透明な流れに変わる。
消防士がヘルメットを脱いで、その水を口に含んだ。
「……冷たい」
「それが、東京の血だ」
唐木の声が小さく響いた。
街のあちこちで、仮設給水栓が次々と開かれる。
タンク車の音、子どもの歓声。
人々が手を伸ばし、掌を濡らす。
水は音を立てずに流れ、
そのすべてを支えるのは、地下深くで静かに息づく鋼とゴムの血管だった。
矢代は空を見上げた。
遠く、白い雲の向こうにまだ黒い焦土が続いている。
「この街が本当に立ち上がるのは、光でも電気でもない。――水が戻ったときだ」
唐木が笑う。
「水がある限り、文明は止まらない。水は時間を運ぶからな」
その言葉を聞きながら、矢代は静かに頷いた。
都市の静脈が、再び呼吸を始めていた