第23章 《循環の再開》
夜明け前の有明。
風はまだ潮の匂いを含み、街の奥ではポンプの低い唸りが続いていた。
かつて地上に広がっていたオフィス街は、今は“塩の平原”だ。
津波の引いた跡には白い結晶がびっしりとこびりつき、道路の下では水道幹線が眠っている。
「ここが破断した送水幹線だな」
矢代隆一中佐は図面を覗き込んだ。
地中10メートル、口径1,200mm。
鋼製高圧管、内面エポキシライニング仕様――かつて朝霞浄水場から南部配水池へと送られていた東京湾岸ルートの一部。
津波による浮力と液状化で管体がたわみ、継手部で裂けている。
「圧力ゼロ、流量ゼロ。完全に“死んでる”な」
佐伯俊技師が頷く。
「塩水混入率、3.4%。浄水規格の千倍です」
「このまま送水したら、街が海を飲むことになる」
ポンプ車のエンジンが唸り、濁った水を地上の排水タンクへ吸い上げていく。
水の中には、細かな砂粒と鉄錆、塩の結晶、そしてわずかな油膜。
「塩分除去はどうする?」
「送水本管の内面をエアブローしてから、中性水で3回フラッシングします」
佐伯が答える。
「その後に超音波洗浄ロボットを入れる予定です」
彼が指差した先では、**管内点検ロボット《W-Crawler III》**がスタンバイしていた。
全長1.2メートル、カメラ・超音波センサー・清掃ノズルを搭載。
リールから伸びるホースが管口に差し込まれ、ロボットがゆっくりと暗闇へと滑り込む。
モニターに映るのは、円筒形の管内壁。
内側には塩の結晶がこびりつき、ライニング層が所々で剥がれている。
「……これは酷いな」
唐木慎吾顧問が眉をひそめた。
「まるで動脈硬化だ。洗い落とせば使えるが、劣化は進んでる」
ロボットが水圧ノズルを噴射。
高圧水流で塩を削ぎ落とし、同時に超音波で微細亀裂を検出する。
「クラック、管路基点から47メートル付近に1箇所。幅2mm」
「交換だな」矢代が即答した。
作業員が新しい**ダクタイル鋳鉄管(DIP φ1200)**をクレーンで吊り上げ、慎重に接続する。
継手は“可とう式耐震ジョイント”――地盤変位を吸収するゴムスリーブ構造。
「接合完了。シール圧0.5MPa。良好です」
午前5時半。
外では配水ポンプ車が待機していた。
「圧送試験、開始します!」
佐伯の声が響く。
ポンプが動き、淡い音を立てながら空気が管内を押し出していく。
圧力計の針が少しずつ上がっていく。
0.1MPa、0.2、0.3――
「異音なし! 漏水なし!」
矢代が手を上げた。
「一次圧力保持、良好!」
続いて、浄水場との遠隔同期が始まる。
「朝霞浄水場から送水指令。水圧上昇、1.5MPaへ」
「了解。受圧弁開放!」
瞬間、低く腹に響くような水音が地下を満たす。
巨大な管路の中を、何十トンもの水が駆け抜けていく。
流速2メートル毎秒。
それはまるで、都市の心臓に血が戻る音だった。
「流量安定。塩分濃度、0.05%まで低下。再生完了です!」
佐伯が笑った。
唐木は静かにモニターを見つめ、呟いた。
「人間も水も、流れが止まれば腐る。動き出せば、生き返る」
やがて地上の仮設配水栓で、作業員がバルブを開いた。
金属のきしむ音のあと、銀色の水が勢いよく噴き出す。
透明で、冷たく、わずかに光を反射していた。
矢代は手のひらで受け、その一滴を見つめる。
「……生き返ったな」
唐木が笑う。
「これが東京の心拍だよ。静かで、止まらないやつだ」
遠くでは、まだ乾かぬ街の上を風が渡っていった。
その風の下で、地中深く――東京の“水の血管”が、再び動き始めていた。