第22章 《再電化の日》
午前5時15分。
夜の名残がまだ残る湾岸の空気は、塩と油の匂いに満ちていた。
有明変電所の仮設指令室で、矢代隆一中佐は静かに息を整えた。
モニターには東京全域の電力マップ。
復旧済み区域は緑、未復旧は灰色。
湾岸、中央、品川――まだ半分が沈黙している。
「再送電系統、全ルート確立。同期試験を開始します」
佐伯俊技師が報告する。
「湾岸幹線Bルート:154kV、電圧安定。南東京幹線:500kV、一次系統正常。
ローカル系統――燃料電池群、供給準備完了」
彼の背後では、補助電源として設けられた水素燃料電池ユニットが静かに唸りを上げていた。
波に洗われた街を、再び光で満たすための「血圧補助ポンプ」だった。
「環状ループ東系統、同期待機。変圧比確認」
唐木慎吾顧問が、ノート端末を片手に制御盤を指差す。
「南北幹線の位相差、0.3度。同期可能範囲だ」
「ならば――繋ぐ」
矢代は短く命じた。
大型の**同期遮断器(S-Breaker 500)**が低い唸りを上げた。
次の瞬間、変電所全体がわずかに震える。
地中深くの高圧ケーブルが電流を受け、鉄心トランスが唸る。
波打つような低周波音が床を伝い、壁が微かに震えた。
「一次電流、流入開始――負荷安定!」
「同期成功、位相差ゼロ!」
佐伯が叫んだ。
唐木は黙ってモニターを見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……心臓が、動いた」
その瞬間、SCADA(遠隔監視制御システム)が自動的に再構成を開始する。
市ヶ谷、永田町、新宿、渋谷――
各区の配電変電所が順次オンライン化され、
マイクログリッドがメイン系統に接続されていく。
通信経路には光ファイバーが使われ、EMP耐性のある光絶縁制御で指令が伝わる。
「大崎変電所、再送電開始!」
「有明第七、接続確認!」
「板橋北系統、通電安定!」
わずか数分のうちに、東京の地図上で灰色が次々と緑へと変わっていく。
その様はまるで、死にかけた体に血が再び流れ始めるようだった。
地上では、街灯が一つ、また一つと点く。
有明の水際で、LEDの白い光が水面に反射した。
「電圧安定。154kV維持」
「変圧器温度、上昇なし」
「冷却水ポンプ稼働中」
矢代は深呼吸し、静かに呟いた。
「東京、再電化完了」
唐木は笑いながらも、どこか遠い目をしていた。
「これでまた、“文明”に戻ったな」
「いや――まだ戻っただけだ。生き返ったわけじゃない」
矢代の声は低く、しかし確かだった。
「次は、これを“守る”番だ」
作業員たちは外に出た。
東の空が赤みを帯び、残った海水が光を反射して眩しく輝く。
倒壊したビルの影から、復興庁の仮設ドローンがゆっくりと上昇する。
そのレンズに、湾岸の街が映る。
再び灯ったビル群の窓、街路灯、信号機。
それは、闇を割る人間の意志そのものだった。
「唐木さん、これで一段落ですか?」
佐伯が尋ねた。
「一段落? まだだよ」
老技師は苦笑した。
「電気は流れた。でも“魂”はまだ届いてない。
電気ってのはな、人の生活が戻って初めて、完成するんだ」
遠く、病院の窓が光を放った。
その光の中で、機械が動き、モニターが点き、人工呼吸器が再び息を吹き返す。
唐木はそれを見て、静かに帽子を取った。
「……これでやっと、“生きてる”と言える」
朝日が昇る。
東京湾岸――一度海に沈んだ都市が、
再び自らの“電の血”を流し始めた。
その光は、塩と鉄の匂いの中で、確かに脈打っていた