第21章 《絶縁の再生》
海が引いたあとの有明は、まだ「沈んだままの都市」だった。
地表は乾いても、**地下15メートルの共同溝(utility tunnel)**には、まだ海水が眠っていた。
塩分がコンクリートの細孔に染み込み、壁面の鉄筋を錆びさせ、
ケーブル被覆は膨張して白く濁っている。
それでも矢代隆一中佐たちは、地下に降りた。
目的はひとつ――“絶縁”を取り戻すこと。
「まずは区間ごとに絶縁抵抗を測る」
佐伯俊技師の声が無線で響く。
「500Vメガで測定――値、0.2メガオーム。完全にリーク状態です」
「だろうな」矢代は苦い顔をした。
「油入りCVケーブルはもうダメだ。全部抜いて乾かす」
作業員たちは、径150mmの地中送電管路から黒いケーブルを引き出した。
外皮は架橋ポリエチレン(XLPE)、中に銅導体(CVT275kV級)。
だが、津波で水圧を受けた部分は、絶縁層が層状に剥がれていた。
唐木慎吾顧問が地上の分析テーブルで顕微鏡を覗きながら言う。
「やっぱり水分侵入で樹脂が膨張してる。絶縁破壊の典型例だ」
「再利用は不可能?」
「3kV以下なら耐えられるが、154kV以上では危険だ。交換しかない」
新しいケーブルがトレーラーで運び込まれた。
黒い巨蛇のように巻かれたそれは、1メートルごとに白いマーキング。
材質は三層押出XLPE、耐熱90℃、設計寿命40年。
表面には「東電PG-BX275」の刻印。
「これを共同溝に通すのか?」と若い作業員が呟く。
「そうだ。東京の血管をもう一度通す」
共同溝の中は、高さ3メートル、幅2.5メートル。
右壁には電力管、左には通信・光ファイバー管、
下段にはガス・冷熱配管が並走する――いわば都市の多層臓器。
中央通路を通って、ケーブルドラムがゆっくり進む。
重力と摩擦を抑えるため、床にはテフロン製ローラーが敷かれ、
上部には**ケーブル支持金具**が等間隔で設置されていた。
「引き込み速度、毎分50センチ。テンション一定」
佐伯がケーブルプーラーの数値を監視する。
「テンション異常なし。導体温度25℃、外皮無損傷」
モーターの唸りが低く響く中、ケーブルは徐々に地下深部へと吸い込まれていった。
外では唐木が冷却油ユニットを点検していた。
「絶縁油ポンプ、再始動。真空乾燥室、稼働良好」
ケーブル端末に真空ホースを繋ぎ、マイナス0.09MPaの減圧下で
残留水分を吸い出していく。
地上テント内の温度計は40度を超えていた。
「湿度、35%。いいペースだ」
唐木は乾燥風を送り込みながら、図面を指でなぞった。
「この路線は湾岸幹線Bルート、154kV。
復旧すれば、臨海副都心・中央排水施設・都心病院群を一気に繋げられる」
「じゃあ、ここが動けば――街が生きる」
「そうだ。血管が通れば、次は心臓だ」
その夜、作業は続いた。
新しいケーブルが溝を這い、接続点ごとにシリコーン絶縁スリーブが圧着される。
作業員は一人ひとり、導体を研磨し、接続部に酸化防止剤を塗布する。
全長3.2km。
「ラスト200メートル!」の声が上がったとき、
矢代はようやく防護マスクを外した。
「よし、絶縁テストだ」
再びメガテスターが鳴く。
「測定開始……0.8、1.2、1.5、――上昇中!」
佐伯が顔を上げた。
「2.5メガオーム! 絶縁回復!」
現場の全員が一斉に息を吐く。
唐木が無線で報告した。
「絶縁良好。充電試験に移行できる」
矢代は静かに言った。
「電気を通せ」
そして午前2時。
黒いケーブルの中に、再び光が流れ始めた。
地上の仮設電柱に取り付けられたランプが一つ、また一つと灯る。
それは、泥に沈んだ東京湾岸に再び“神経の火花”が走る瞬間だった。
唐木は冷却ユニットの圧力計を見つめながら呟いた。
「これで電気は戻った。だが――“人の気配”が戻るには、もう少し時間が要る