第20章 《海底の変電所》
津波が引いてから、もう二週間が経っていた。
東京湾岸の街は、まだ「半分が海」のままだった。
有明、豊洲、芝浦――すべての地面が、薄い塩膜で覆われている。
建物の1階部分には海藻が貼りつき、街路樹は塩害で黒く枯れていた。
そして地下には、電力の神経網が沈黙していた。
矢代隆一中佐は、胸まで水に浸かりながら共同溝の入口を見下ろした。
「ここが、有明第七変電所へのアクセスルートか」
隣にいた佐伯俊技師がうなずく。
「はい。地震のあと、津波で完全に水没。送電ケーブルも変電ユニットも塩水にやられています」
「排水ポンプは?」
「全滅です。手動ポンプで水位を下げてから、潜入します」
彼らの後ろでは、仮設のディーゼル発電機が唸りを上げていた。
津波で倒壊した湾岸幹線の代わりに、臨時の“電気の点滴”が設けられている。
ホースのように太いケーブルが、仮設送電盤から共同溝の奥へと続いていた。
「中の塩分濃度は?」
「NaCl換算で2.7%。ほぼ海水ですね。絶縁どころか、導通状態です」
「……つまり、電気を流した瞬間に爆ぜる」
矢代は短く息を吐いた。
「乾かすしかないな。火を使わず、風と時間で」
作業員たちはポンプを稼働させ、濁った水を地上のタンクへ送り出していく。
濁流の中には、ケーブル被覆の破片、鉄錆、ガラス片、そして海の泥。
有明の地下は、まるで死んだ臓器の中のようだった。
壁には「東電PG有明線 No.6」のプレート。
その下には、白く結晶化した塩が、冬の霜のように付着している。
「酸素濃度、OK。降ります」
佐伯がロープを握り、慎重に地下へ降りていく。
ランプの光が水に反射し、天井にゆらめく波紋を描いた。
「……まるで海底遺跡だな」
唐木慎吾顧問の声が無線から聞こえる。
「三十年前、俺が設計した配電トンネルが、いま海の底とはな」
地下十五メートル。
水位は膝下まで下がったが、床はまだぬかるみ、塩水が滴っていた。
銅導体は白く酸化し、被覆は膨張して裂けている。
佐伯はマルチメータを当て、端末に値を送る。
「導通値ゼロ。……完全に死んでます」
「ケーブル再敷設しかないな」
「はい。ただし、共同溝全長3.2キロを全部張り直すには、最低でも一ヶ月」
「一ヶ月も光を止めておくわけにはいかん」
矢代は腕時計を見た。
「変電器の鉄心は生きてるか?」
「確認中です」
唐木が地上のテント内でノートPCを叩く。
「SF₆ガス系のGISユニットは内部絶縁が保たれてる。奇跡だ。津波圧でも破裂しなかった」
「だったら心臓はまだ動くな」
「問題は血管だ。銅が腐ってる」
「アルミ導体に切り替える」
「おい、あれは腐食しやすいぞ」
「海水でやられた銅よりマシだ。……一本でも流せば、そこからまた光が走る」
夜明けが近づく。
東の空がわずかに灰色を帯び、海水に反射して鈍く光る。
作業員たちは肩まで泥に浸かりながらケーブルを引き出していく。
一本あたりの重さは150キロ。
まるで死体を運ぶような重さだった。
「三番ケーブル、交換完了」
「絶縁テスト、良好!」
矢代が叫ぶ。「次、接続!」
圧着スリーブが火花を散らし、接点からわずかな白煙が上がる。
湿気が残る空気を、オゾンの匂いが満たした。
「電流、テスト開始!」
ケーブルの中を、初めての電流が通り抜ける。
その瞬間、塩水が微かに泡立ち、空気が鳴いた。
「一次通電、成功!」
唐木の声が無線越しに響いた。
「……これで湾岸が生きる。ほんの10メガワットでも、生命維持には十分だ」
矢代は水中に沈むケーブルを見下ろした。
黒く光る蛇のようなそれが、確かに脈動していた。
「光が戻るのはいつだ?」
「あと六時間。最初は港湾病院、その次に排水ポンプ群」
「よし。順番を間違えるな。生き物も都市も、まずは心臓からだ」
地上の空に、朝の光が差し込む。
遠くの湾岸ビルの屋上で、一つだけ非常灯が灯った。
それは海に沈んだ都市が、再び呼吸を始める最初の瞬きだった