第19章 《環状ループ ― 電の輪が閉じる》
午前七時四十五分。
霞ヶ関の地下では、再生した変電所の低い唸りが響いていた。
だが、首都はまだ「半身不随」の状態にあった。
南東京幹線の電流は動き出したが、北側――板橋・大手町経由の環状ルートが未接続のままだ。
都市は、まだ血の巡りが片方しかない。
矢代中佐は携帯端末に映るリアルタイム配電マップを睨んでいた。
黒い地図の上で、南側ルートが赤く脈を打ち、北側は沈黙している。
「板橋変電所の復旧は?」
「高圧母線の絶縁再試験、あと四十分です」
佐伯技師の声が通信に響く。
「多摩幹線、275kV系統は安定。湾岸ルートも臨界電圧に到達。……あとは“輪を閉じる”だけです」
矢代は息を飲んだ。
その「輪」とは、東京154kV環状給電線――
首都全域を一周する、“電気のドーナツ”とも呼ばれる防御構造だ。
どこかが断たれても、別方向から電力を迂回できる。
それを設計したのが、今ここに立つ唐木慎吾だった。
「唐木さん、このループ、設計当初の思想は?」
「単純だよ。――“東京は一方向では生きられない”。
右から撃たれたら、左から血を送る。脳が止まる前に心臓が動くようにな」
老技師は苦笑し、スパナを持つ手をわずかに震わせた。
「そのとき想定してたのは地震と戦争だった。まさか核の後に自分で動かすとはな」
地下ケーブルラックの最深部で、作業員が結線作業を進めていた。
銅導体はまるで筋肉繊維のように光り、一本ずつ丁寧に圧着されていく。
「接続部B-2、導通確認」
「抵抗値0.1オーム。許容内」
「絶縁抵抗、OK。被覆温度上昇なし」
矢代は腕を組み、沈黙のまま全体を見渡した。
地下の空気がわずかに湿り、鉄とオゾンの匂いが鼻を刺す。
地上では、東電PGの**中央給電指令所(CR)**が目を覚ましていた。
多摩川沿いのビルの中、オペレーターたちが並ぶ。
十数台の大型モニターには、首都圏の電圧マップが表示されている。
「霞ヶ関変電所、一次出力安定。南東京幹線稼働中」
「北東京幹線、開通許可待ち」
主任技師の女性がマイクを取り、短く告げた。
「――環状接続、承認します」
同時に、地下の制御室に指令音が鳴った。
「霞ヶ関セクションA・B接続準備。最終絶縁チェック完了」
佐伯がパネル前に立ち、息を整える。
「圧力、温度、振動――すべて基準内。……行けます」
矢代は頷き、短く命じた。
「ループ接続――実行」
スイッチが押された瞬間、空間全体がかすかに震えた。
金属同士が擦れる乾いた音が響き、ケーブルラックを走る青白い閃光が一瞬走る。
「負荷分散、開始!」
制御盤の針が跳ね上がり、各区の出力が次々と緑に変わる。
大手町、永田町、赤坂、銀座……
霞ヶ関の地下で、何百ものリレーが次々と弾けるように作動した。
音の連鎖がまるで鼓動の波のように地下を駆け抜けた。
「全域同期――成功!」
佐伯の声が弾んだ。
矢代は深く息を吐く。
「東京、循環開始」
唐木はモニターを見つめたまま、低く呟く。
「……心臓が血を押し出した。次は毛細血管の仕事だ」
地上では、倒壊を免れたビルの屋上に一つ、また一つと灯りが戻る。
信号機が赤に変わり、遠くで非常灯の緑が点く。
誰もいない交差点に、初めて人工の光が落ちた。
その瞬間、唐木は目を細めた。
「人間ってのは、光を見ると立ち上がる。……だから電気は希望なんだよ」
矢代は黙って頷き、無線を握った。
「霞ヶ関変電所より全系統へ――環状ループ、完全閉鎖を確認。
東京電脈、全身循環開始。……都市は生き返った」
その報告が指令所に届いた瞬間、モニターの首都地図が緑一色に染まった。
“輪”が閉じた。
それは、破壊のあとに蘇る人間の意志そのものだった