第18章 《変電所 ― 鉄の心臓を動かせ》
霞ヶ関地下三十五メートル。
そこは「都市の心臓」と呼ばれる空間だった。
四方の壁には鋼鉄製の配電盤が並び、直径三メートルのトランスが四基、整然と鎮座している。
しかしその心臓は、九ヶ月間止まっていた。
油が乾き、絶縁ガスが抜け、銅線は静脈のように沈黙している。
唐木慎吾はヘルメットのライトを上げ、天井を見上げた。
「……やっぱり、ここも水をかぶったな」
鉄骨の梁に、塩分を含んだ結晶が白く残っている。
海風と津波が地下通風孔から入り込んだ痕跡だ。
「潮気が残ってりゃ絶縁は死んでる」佐伯が言う。
「再起動前に乾燥させるしかない」
「熱風循環、開始」
矢代中佐の指示で、送風ダクトが唸りを上げる。
大型ヒーターが作動し、50度の熱風が鉄の心臓を包み込む。
この変電所は、275キロボルト→66キロボルトへの降圧を担う「中間心臓」だ。
東電PGの南北幹線から受けた電気を、霞ヶ関・丸の内・永田町の各配電ルートに分配する。
だが、地下のGIS(Gas Insulated Switchgear:ガス絶縁開閉装置)が機能を失えば、
電力はどんなに流れても、都市の上には届かない。
唐木はパネルの前に立ち、目を閉じるように呟いた。
「電気は血液だ。変電所は心臓。トランスは弁、開閉器は拍動のリズムだ。
この拍動が止まると、都市は呼吸を忘れる」
彼の声に誰も笑わなかった。
誰もがそれを事実として知っていたからだ。
「ガス圧確認!」
佐伯が報告する。
SF₆ガス(六フッ化硫黄)充填タンクが低く唸りを上げ、透明なホースが振動する。
「圧力0.5メガパスカル、規定値内。絶縁良好」
「スイッチギア、セクションA接続」
カチン――金属が噛み合う乾いた音が響いた。
その一瞬、誰もが息を止めた。
唐木が手元の計器を見つめる。
電流はまだゼロ。
矢代が時計を見た。「一次送電試験、0600開始。あと三分」
その間、空間を満たすのは金属の匂いと、冷却油の独特な甘い臭気だった。
壁際の制御パネルには赤い警告灯がずらりと並び、まるで沈黙した都市の心電図のようだった。
「――行け」
矢代の一言で、メインブレーカーが投入された。
轟音。
圧縮ガスが弁を通り抜け、空気が震えた。
次の瞬間、トランスが低く唸り始める。
銅コイルの中を電流が駆け抜け、冷却油が細かな波紋を立てる。
「一次側電圧、安定。二次側66kV出力確認」
佐伯の声が震える。
メーターの針が静かに動き出した。
唐木は息を吐き、ゆっくりと手袋を外す。
「……動いた。心臓が打ったぞ」
だが次の瞬間、天井の警報灯が赤く点滅した。
「冷却ユニットC、温度上昇!」
「冷却油が循環してない!」
「ポンプ系統にエア噛みだ!」
矢代が駆け寄り、緊急遮断弁を開放。
空気が抜ける音がして、油が再び流れ出した。
温度計の針がゆっくりと下がる。
沈黙。
唐木は額の汗を拭き、冷たい笑みを浮かべた。
「心臓の鼓動ってやつは、最初はいつも不整脈なんだ」
変電所の照明が次々と点き始める。
白い光が鉄の壁に反射し、闇が後退していく。
数ヶ月ぶりの“人工の昼”が地下に戻ってきた。
矢代は言った。
「ここが動けば、霞ヶ関全域が息を吹き返す」
佐伯が頷き、制御盤に手を置いた。
「送電確認。出力電流、標準値。安定しています」
唐木は黙って天井を見上げた。
鉄と電流の間を通して、地上の街の影が見える気がした。
「電気ってのはな、見えないまま、全部をつないでる。
人間の記憶も、通信も、希望も、ぜんぶこれの上に乗っかってる」
唐木の声は静かだった。
矢代は短く答えた。
「じゃあ、もう一度動かそう。――都市を」
そのとき、遠くの壁面で緑のランプが点いた。
【霞ヶ関第三区 電力供給開始】
メインモニターに波形が浮かび、トランスの鼓動音が安定する。
唐木は深く息を吸い、言った。
「心拍、安定。……首都の心臓、再始動だ