第16章 《断線の街 ― 沈黙する首都》
夜の東京は、音を失っていた。
霞ヶ関の交差点。かつて無数の車列と人の波が交差していた場所に、いまは風しか通らない。
街灯はすべて消え、ガラスの高層ビル群は黒い墓標のようにそびえている。
遠くで崩れかけたビルの壁面が月明かりを反射し、白く光った。
その光だけが、文明の残滓のように見えた。
地上は静寂だが、地面の下では別の音が鳴っていた。
地下二十五メートル、霞ヶ関共同溝。
焦げたケーブル、油に濡れたコンクリート、破裂した冷却管。
溶けた絶縁体が壁を這い、ところどころで鉄がむせび泣くような音を立てていた。
矢代隆一中佐はヘルメットのライトをつけ、崩れた通路を進んだ。
靴底がオイルを踏み、ぬるりと滑る。
地下の空気は濃密で、金属と焦げの臭いが混ざっている。
「温度、三十六度。酸素濃度、十七パーセント。まだ入れる」
背後で報告するのは佐伯俊、元東電の電力技師だった。
軍と民間、立場の違う二人が同じ場所に立っていること自体、戦後の異常を物語っていた。
壁際のケーブルラックは黒く炭化していた。
溶断の跡がある。
佐伯が金属製の被覆を指先でなぞり、低く唸った。
「爆風の熱じゃないな。電流暴走の焼損だ。高圧線が地絡して、一気に焼けた」
「電圧はいくつだ?」
「ここは154キロボルト。環状系統の要だ」
「つまり、首都の神経幹線が焼き切れたわけだな」
矢代の声は静かだった。
二人の後ろを、若い作業員たちが慎重に進む。
防爆灯が揺れ、影が壁に長く伸びた。
その光が一瞬、あるものを照らす。
――巨大な変電盤。
計器はすべて黒く煤け、メーターの針は焼け落ちていた。
かつてここで何万キロワットもの電流が流れ、街を光で満たしていた。
いまはただの冷たい鉄の箱だ。
唐木慎吾、復興庁インフラ顧問が後方から現れる。
七十を超えた老技師。東電時代に東京の地下電力網を設計した男だ。
「……見事にやられたな。だが、ここはまだ“死んで”はいない」
矢代が振り返る。「どういう意味だ」
「残留電荷がある。地下深部の超高圧線が完全には落ちていない。
つまり、脳死寸前でも心臓は動いている」
唐木は計器に手を当てた。冷たい鉄の感触を確かめるように。
「電気は血だ。止まれば都市は死ぬ。だが、血が通う道があるなら蘇生できる」
その言葉に、佐伯が小さく頷く。
「送電のルートを確保できれば、再通電は可能だ。
ただし問題は冷却だ。オイルが抜けて、ケーブル温度がもう限界に近い」
矢代は腕時計を見る。「あと何時間もつ」
「八時間。明け方には臨界に達する」
「……その前に動かす。やるしかない」
頭上からわずかな振動が伝わってきた。
地上では、再建途中のビルクレーンが風で軋んでいる。
唐木がぼそりと呟く。「地上の骨格だけ直しても無駄だ。地下の血管を繋がなきゃ、人間は歩けん」
矢代はライトを前に向けた。
その先に、曲がりくねったケーブル管が闇の中へ消えている。
まるで人間の神経のようだった。
佐伯が端末を起動させる。「配電図、出します」
ディスプレイに霞ヶ関一帯の電力マップが浮かぶ。
無数の線が赤く表示され、ほとんどが“断”を示す。
ただ一箇所、南東京幹線の支線が緑に点滅していた。
「ここだ。まだ生きてる」
唐木が目を細める。「大崎ルートか。あの地下ループが生き残っていたとは……」
矢代は短く命じた。「人員を二班に分ける。ひとつは断線修復、もう一つは冷却復帰。
六時間後に一次送電を試す」
佐伯が苦笑する。「大胆ですね、中佐」
「戦場じゃ、慎重すぎる指揮官が一番人を殺す」
矢代は冷静に言い、焼けたケーブルを握った。
熱はない。だが、わずかに金属の奥で“生命の残滓”が脈打つような気がした。
地上の風が吹き込み、地下の埃が舞う。
遠くで崩れたガラスが風に鳴った。
唐木がぽつりと呟く。
「この街はまだ、光を覚えている」
矢代は無言で頷き、通信機に命令を送った。
「――全班、準備開始。ここから“電の再生”を始める」
その声が静寂のトンネルに響いた。
やがて、遠くで重機のエンジンが唸りを上げる。
黒い闇の底で、東京の神経が再びうずき始めた