第15章《都市ガス幹管 ― 火を戻す》
夕暮れが近い。
霞ヶ関地下二十五メートル、第3ガス幹線制御区画。
通称「ガス聖堂」。その名の通り、巨大なパイプ群が並ぶ空間は、まるで金属の大聖堂のようだった。
厚さ10センチの鋼管が幾重にも枝分かれし、壁面には圧力計と安全弁が無数に並ぶ。
今夜、九ヶ月ぶりに“火”を戻す――誰もがそれを理解していた。
主任技師の唐木は、腕時計を見た。
「18時15分、一次バルブ開放。圧力上昇0.2メガパスカルごとに確認」
ヘルメットの通信機に声が響く。
『了解、中央制御応答。圧力監視開始』
唐木の背後では、衛生兵と消防班が待機していた。
可燃性ガスの漏出を検知すれば即座に封鎖するためだ。
防爆灯の下で、作業員たちは一様に黙り込んでいた。
空気は乾燥しており、わずかな静電気でさえ爆発の引き金になる。
「主弁、開放三段階まで。慎重にいけ」
「了解!」
金属の軋む音とともに、巨大なハンドルがゆっくりと回される。
遠くで低い唸りが響く。ガスが流れ始めたのだ。
鋼管の中を空気が押し出され、圧力波が壁を伝う。
誰もが息を止めた。
「圧力0.8メガパスカル、安定」
唐木は眉をひそめた。「まだ低い。二段階へ」
作業員が慎重にバルブを開く。
メーターの針が震えながら上昇していく。
「1.2……1.5……」
その瞬間、微かな音がした。
カツン、と壁のどこかで金属が弾ける。
全員が動きを止める。
「漏れか?」
「ちがう、エアトラップだ。空気抜けだ」
唐木は深呼吸し、マスク越しに呟いた。「続行」
再加圧試験は、戦場のような緊張に包まれていた。
目に見えない“気体の力”が、管の中で暴れる。
圧力計の針が2.0に達し、安定線に乗った瞬間――
唐木は小さく頷いた。
「よし。流量、規定値。……これで、火を戻せる」
照明が落とされ、空間が暗くなる。
中央の試験炉の上に、一本の細いガス管が伸びている。
その先端に、青い着火装置が設置されていた。
全員が見守る中、唐木がスイッチを押す。
「点火——」
カチリ。
微かな火花が散り、次の瞬間、小さな青い炎が静かに灯った。
音はない。
だが、その光は地下空間を淡く照らし出す。
高温の炎が揺れ、壁面の計器の影が微かに震える。
誰も言葉を発しなかった。
長い間、沈黙していた東京に、ようやく“熱”が戻った。
唐木はゆっくりと膝をつき、炎を見つめた。
「……戻ったな」
その声は、独り言のように低く、しかし確かな実感に満ちていた。
消防班の一人が、思わず口を開く。
「これで、飯が炊けますね」
唐木は笑った。「ああ。湯も沸かせる」
「風呂もです」
「そうだ。風呂もだ」
小さな笑いが広がった。
その笑いは、長い絶望の底から湧き上がる人間らしい音だった。
唐木は炎を見つめながら呟く。
「電気は理性だ。水は生命。通信は記憶。そして火は……意志だ」
青い光が彼の瞳に映る。
それはただの炎ではなかった。
都市が再び“人間の熱”を取り戻す瞬間だった。
やがて制御卓に報告が入る。
『ガス供給圧、安定。区域再点火完了。——これにて、都市ガス幹管、復旧確認』
唐木は立ち上がり、敬礼した。
「おつかれさん。……これで東京は、ようやく“生き返った”」
地下の炎は小さく揺れ続けていた。
それは、冷たい鉄の都に宿る、最初の心臓の鼓動のようだった