第12章 《水道主幹 No.7 ― 再配水試験》
午前四時、地下四十メートル。
霞ヶ関第七配水トンネルは、夜明け前の闇の中に沈んでいた。
冷たい水の匂い、鉄と塩素の混じった刺激臭が鼻を刺す。ヘッドランプの光が濡れた壁面を照らすと、亀裂に入り込んだ藻がわずかに光を反射した。
老技師・村岡は、ひざまで水に浸かりながら配管のバルブを手で叩いた。
「……音が違う。空気が抜けきってねえ」
若い整備員が返す。「もう一度ベント弁を開けましょうか?」
「開けりゃ爆発すんぞ。圧が偏ってる」
核攻撃後の浸水と汚染で、この配水トンネルは半年以上閉鎖されていた。
いま行っているのは“再配水試験”——
つまり、東京に再び飲料水を通すための“心臓マッサージ”だ。
しかし、腐食した配管と沈殿したヘドロは頑強で、わずかな油断が致命傷になる。
村岡は壁際のメーターを見た。圧力は1.8メガパスカル。限界値の手前で針が止まっている。
「ここまで来りゃ、あとは祈るしかねえ」
背後から白井真菜が歩み寄る。防水スーツにヘルメットランプ。彼女の手には新しいセンサー端末があった。
「浄水場からの供給、準備完了です。送水バルブを開けますか?」
「待て」村岡は短く言い、耳を澄ませた。
遠くの闇の奥で、低い唸りが響いていた。
「来るぞ」
次の瞬間、トンネルの奥から風のような音が迫ってくる。
空気が押し出され、水が鉄の管を駆け抜ける音だ。
地鳴りのような衝撃が床を震わせ、壁のボルトがきしむ。
「圧上昇! 二・二!」白井の声が響く。
「耐圧限界ギリギリ!」
村岡は叫びながらバルブにしがみつき、手動で流量を調整した。
水が吹き出す寸前で針が止まる。
そして、しばらくの静寂の後——
どこかで「ごうっ」と鈍い音が鳴り、トンネル全体がかすかに震えた。
「……通った」
白井が呟いた。
水道主幹No.7、再配水成功。
冷たい水が管の中を流れている。計器の数字が安定し、流量は設計値に達した。
村岡はヘルメットを外し、額の汗をぬぐう。
「おい、若いの。水ってのはな、人間の命より気まぐれなんだ。油断したら一瞬で全部持ってかれる」
白井は微笑んだ。「でも、戻りました。東京に“水”が」
「まだだ」村岡は静かに答えた。「この水はまだ“飲める”とは言えねぇ。地表の浄水場が動かなきゃ、ただの冷たい汚泥だ」
そのとき、インカムに声が入る。
『中央制御より通達。第一給水区への供給ライン確立を確認。水圧安定。——お疲れさまです』
沈黙。
次の瞬間、現場の誰かがぽつりと呟いた。「やった……」
声が広がり、笑いが漏れる。
泣いている者もいた。半年間、泥と錆と闇の中で、この一滴を待っていた。
村岡は壁のパイプに手を当てた。
冷たく、確かに流れている。
「いいか、この音を忘れるな。これが人間の文明ってやつだ」
彼の指の下を、東京の新しい命脈が流れていった。
地上では、まだ朝日は昇っていない。
だが、霞ヶ関の地下ではすでに“夜明け”が始まっていた。
水が通る——そのことが、誰よりも早く希望を運んでくる。
白井は小さく呟いた。
「次は、飲める水を」
村岡はうなずき、工具を肩に掛けた。
「そうだ。飲める水が戻ったとき、それが本当の復興だ」
地下トンネルに残る音は、もう轟音ではなかった。
穏やかに流れる水のせせらぎが、遠くまで続いていた