第10章 《掘削線 No.1 — 地下深度三十メートル》
地中の闇は、思ったよりも生きていた。
湿気を帯びた空気の奥で、鉄と油の匂いが重く漂う。照明の光は白く冷たく、掘削壁に反射して不規則な影を踊らせた。ドリルヘッドが回転を止め、掘削班が坑口に散る。矢代はヘルメットのランプを落とし、計器のランプを見つめた。表示は正確に深度三十メートルを示していた。
「この層、圧が高いな。ロームの下に礫層が噛んでる」
佐伯が声をかけた。計器の針が微かに震える。
「設計どおりの支保じゃもたん。追加のアーチ補強を検討した方がいい」
矢代は短く頷いた。彼の頭の中では、予算表と安全係数のグラフが同時に浮かんでいた。数字は冷たいが、あの数字の向こうに人間の骨がある。一本でも支保工をケチれば、死体袋の数が増えるだけだ。
送風機の音が低く唸る。坑道の奥では粉塵が霧のように漂い、ヘッドランプの光を霞ませた。矢代はマスクの隙間から漏れる息の熱を感じる。地上では「未来都市建設」と報道されるこの作業も、現場では単なる「耐震・耐爆掘削」でしかない。
――だが、それでいい。真実はいつだって地下に沈む。
通信班が無線で呼びかけた。「本部より警戒通達。外部監視ドローンに不明電波の反射波。電磁妨害の可能性あり」
矢代は一瞬だけ顔を上げた。上空のPMC部隊か、あるいは何者かがこの計画を覗いている。
「佐伯、掘削データはリアルタイム送信を止めろ。ローカル保存に切り替え」
「え? でもクラウドに——」
「クラウドなんて敵の懐だ」
短く吐き捨てる。技術屋の理屈と、軍人の直感。その境界で、二人の呼吸が一瞬だけずれた。
その頃、地上では式典の映像が生配信されていた。復興庁の広報チームがドローンを飛ばし、夜明けの港を「希望の象徴」として映す。だが矢代たちの耳に届くのは、送風機と油圧の唸りだけだった。
午前十一時。カッターヘッドが再始動。トンネルの壁面が震え、粉塵が雪のように降る。
矢代はゆっくりと振り返り、坑道の奥に目をやった。鋼鉄の胴体が蠢くその先には、ただ暗闇しかない。
「これが“要塞都市”の第一層か……」
呟きは誰にも聞こえなかった。
昼休憩の合図が鳴る。作業員たちは一斉に坑口近くの休憩テントへ向かう。温められた弁当の匂いが漂う中、安西衛生兵が笑って言った。
「上の連中、また視察に来るってさ。ヘルメットも新品で」
笑いが起きる。
矢代は無言で缶コーヒーを開けた。ぬるい。だが、味がした。
午後、地盤振動の数値が急に跳ね上がった。警報が鳴る。地表からの圧が変動している。
「止めろ! 全部止めろ!」
作業員が緊急停止ボタンを叩き、ドリルの唸りが止まる。微かな静寂のあと、天井の岩盤から砂がぱらぱらと落ちた。
佐伯が呟く。「……地表で何かあった」
矢代はヘルメットの無線を切り替える。外線はノイズしか返さない。
「電磁障害だな」
その瞬間、胸の奥で冷たい予感が走る。
地上では、報道車両の無線が一斉に沈黙した。港の遠く、東の空に白い閃光が広がったと記録係が証言している。だがそれを地下で見た者はいない。彼らが感じたのは、わずかな圧の変化と、鉄骨が軋む低い音だけだった。
矢代は静かに息を吐いた。
「……地上が、始まったな」
誰も言葉を返さなかった。粉塵が降る音だけが、東京の胎動のように響いていた