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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2046/2200

第202章 《沈んだ色、浮かぶ像》



 葵は、そっと目を閉じた。

 遠くで波の崩れる音がする。

 それは記録された音ではなく、体に直接“圧”として伝わる音だった。


 まぶたの裏に、ゆっくりと風景が立ち上がってくる。

 さっき描いた海。描ききれなかった雲の破片。

 そして――絵にはなかった光。絵には描かれていない、でも“あのとき確かに見えていた”金色の揺らぎ。


 目を閉じたまま、葵は思った。

 「どうしてこれが、絵にならなかったんだろう」


 実際に塗った色は、絵具の名前で呼べるものだった。

 コバルトブルー、グリーンアース、イエローオーカー。

 けれど今、目の裏に浮かんでいる“その色”は、名前では呼べなかった。


 透明で、揺らぎがあって、中心がなくて、まるで自分の感情そのもののような――

 それでいて、確かに“そこにあった”という確信を持っていた。


 再び目を開けた。

 スケッチブックに描かれた絵は、すでに乾いていた。

 にじみは止まり、粒子は沈み、光は固定されたように見える。


 だが、その「止まっている絵」の中にも、

 心象としか言えない“揺れ”が残っている気がした。


 空の端に残った不規則な縁取り。

 色を拭い取ろうとして紙を痛めてしまった傷。

 絵具が不意に垂れたあとを、あえて修正しなかった痕跡。


 それらが、今となっては「心の中の風景」と完全に重なっていた。


 葵は筆を取り、乾いた絵の脇にもう一枚、新しい紙を置いた。

 そこには、“目を閉じたときに見えた色”を描いてみようと思った。

 目に見えるものではなく、**「記憶のなかで光っている色」**を、水で滲ませながら、薄く、重ねていく。


 それは色というより、記憶の温度や感情の輪郭だった。


 ローズマダーに少しだけコバルトを加えて、乾いた後にも“呼吸”が残るように薄くのせる。

 次に、透明度の高いレモンイエローを、ほとんど水だけで薄めて、海の奥に沈んだ光の反射のように点す。


 この絵には、実際の海はもう描かれていない。

 でも、目を閉じたときにだけ現れる海が、紙の上に浮かびつつあった。


 「もしかしたら……」と葵は思った。

 「絵って、心象風景の“記録”なのかもしれない」


 描かれているのは光でも水でもなく――

 “そのとき見えていた何か”と、“あとで思い出す何か”の中間にある、揺れた色。


 それが水彩という技法でしか捉えられないとしたら、

 きっとそれは、色が“乾いても変わり続ける”という不思議な性質と関係している。


 波の音が少し遠のいた。

 葵は筆を止め、にじみが沈んでいくのを静かに待った。


 何も描いていない部分が、そのまま“風の通り道”になっていることに気づき、

 もうこれ以上塗るのをやめようと思った。


 それは、完成ではなく――「これで十分」という感覚だった。


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