第202章 《沈んだ色、浮かぶ像》
葵は、そっと目を閉じた。
遠くで波の崩れる音がする。
それは記録された音ではなく、体に直接“圧”として伝わる音だった。
まぶたの裏に、ゆっくりと風景が立ち上がってくる。
さっき描いた海。描ききれなかった雲の破片。
そして――絵にはなかった光。絵には描かれていない、でも“あのとき確かに見えていた”金色の揺らぎ。
目を閉じたまま、葵は思った。
「どうしてこれが、絵にならなかったんだろう」
実際に塗った色は、絵具の名前で呼べるものだった。
コバルトブルー、グリーンアース、イエローオーカー。
けれど今、目の裏に浮かんでいる“その色”は、名前では呼べなかった。
透明で、揺らぎがあって、中心がなくて、まるで自分の感情そのもののような――
それでいて、確かに“そこにあった”という確信を持っていた。
再び目を開けた。
スケッチブックに描かれた絵は、すでに乾いていた。
にじみは止まり、粒子は沈み、光は固定されたように見える。
だが、その「止まっている絵」の中にも、
心象としか言えない“揺れ”が残っている気がした。
空の端に残った不規則な縁取り。
色を拭い取ろうとして紙を痛めてしまった傷。
絵具が不意に垂れたあとを、あえて修正しなかった痕跡。
それらが、今となっては「心の中の風景」と完全に重なっていた。
葵は筆を取り、乾いた絵の脇にもう一枚、新しい紙を置いた。
そこには、“目を閉じたときに見えた色”を描いてみようと思った。
目に見えるものではなく、**「記憶のなかで光っている色」**を、水で滲ませながら、薄く、重ねていく。
それは色というより、記憶の温度や感情の輪郭だった。
ローズマダーに少しだけコバルトを加えて、乾いた後にも“呼吸”が残るように薄くのせる。
次に、透明度の高いレモンイエローを、ほとんど水だけで薄めて、海の奥に沈んだ光の反射のように点す。
この絵には、実際の海はもう描かれていない。
でも、目を閉じたときにだけ現れる海が、紙の上に浮かびつつあった。
「もしかしたら……」と葵は思った。
「絵って、心象風景の“記録”なのかもしれない」
描かれているのは光でも水でもなく――
“そのとき見えていた何か”と、“あとで思い出す何か”の中間にある、揺れた色。
それが水彩という技法でしか捉えられないとしたら、
きっとそれは、色が“乾いても変わり続ける”という不思議な性質と関係している。
波の音が少し遠のいた。
葵は筆を止め、にじみが沈んでいくのを静かに待った。
何も描いていない部分が、そのまま“風の通り道”になっていることに気づき、
もうこれ以上塗るのをやめようと思った。
それは、完成ではなく――「これで十分」という感覚だった。