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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2044/2187

第200章 《映らなかったもの》




 夕方に差し掛かった海は、光を失ったわけではなかった。

 むしろ、朝よりも“深く光っていた”。

 空は静かに淡くなり、水平線の輪郭が鈍くなる。

 液晶画面に映る午前の写真は、もはや“違う世界の断片”のように感じられた。


 風がまた吹いた。

 さっきより冷たく、湿っていた。

 葵は袖を引き寄せて首元を覆った。

 肌の上に“空気の重み”が乗る。それは、どんなカメラにも映らない。


 絵の具はもう乾いていた。

 だが、ところどころに“湿った感覚”が残っていた。

 紙の繊維の奥に入り込んだ絵具の粒子が、かすかにざらつく。

 筆でのばした痕が、光に対して“角度を持った記憶”のように浮かぶ。


 それは、画面には存在しない“厚み”だった。

 画面の画像は、常に一定の光を発し続ける。

 水彩紙は、光を受け取り、それを角度と時間に応じて返してくる。

 まるで、絵そのものが“環境と会話している”ようだった。


 描いたはずの色が、時間の中で変わっていく。

 午前中に塗ったグリーンアースは、陽が落ちてくると、少し青く見えた。

 空のグレーは、温かみを増し、ローズマダーが光の端でほのかに滲む。

 これは、タブレットでは再現できない色彩の“呼吸”だった。


 葵は思った。

 「色って、乾いた後も生きてるのかもしれない」


 彼女は、タブレットの画面をもう一度見た。

 そこには、完璧な海が映っていた。

 でも――そこにいたのは「風景」だけだった。


 画面には、

 - 手のひらの砂のざらつきも、

 - 頬をかすめた潮の香りも、

 - 塗っている最中の“失敗の戸惑い”も、

 映っていなかった。


 絵の中には、映っていた。

 たとえば、空の上部に残った白のにじみは、本当はローズマダーが流れすぎて思わず拭き取った痕だった。

 でもそれが、いま見ると、風が雲を引き裂いたような跡に見えた。


 液晶は、そういう“偶然”を持っていない。

 写真は、すでに完成されている。

 だが、水彩は、完成される前の“流動”を内包していた。


 絵には、**“描かれなかった風”**が、むしろ強く残っている気がした。


 それはたとえば――

 ・描こうとして諦めた水平線の歪み

 ・風で滲んだブームの縁の色

 ・不意に紙の下に入った小石の影


 それらは、絵として“描かれた”わけではない。

 でも、そこに“あった”という気配が、確かに沈殿している。


 葵は、それを「映らなかったもの」と名づけた。


 絵が、風を記録している。

 自分の感情、迷い、塗り重ねの躊躇までを――


 タブレットの中の写真は完璧だった。

 だが、それは誰が見ても同じ“情報”だった。


 この絵は違う。

 自分にしかわからない“失敗と試行”の層が、光に沈んでいる。


 「見えるものだけが、記録じゃないんだ」

 葵はそう呟いた。


 “見えなかったもの”が、

 “描かれなかったもの”が、

 いちばん強く絵に残っていた。


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