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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2042/2229

第198章 《紙とパネルのあいだ》




 午後の光が、海の上に筋を引いていた。

 風は静まったようでいて、ときおり砂を巻き上げた。葵の足元に置いたパレットの水面に、小さな塵が一つ落ちる。

 それが波紋になって広がるのを、葵は眺めていた。

 絵具の粒子が、塵とともに回転し、やがて沈殿する。まるで“色が時間の底に沈む”ようだった。


 葵は筆を置いた。

 描きかけの紙は、部分的にまだ濡れている。乾きかけの縁に、新たな筆を入れると、境界線が滲んで崩れる。

 水彩画では、それが「事故」であることも、「奇跡」であることもある。


 紙は、呼吸していた。

 濡れている部分と乾き始めた部分が、光を違えて返す。

 絵具は沈み、水分は蒸発し、紙の繊維が波打つように膨らんでいた。


 その光景を、葵は手元の液晶パネルと比べた。


 画面の中では、海も空も“永遠のまま”に停止している。

 解像度は高い。発色も正確だ。

 だが、その色は動かない。

 粒子も、乾きも、沈みもない。


 そこには「時間」がなかった。


 水彩紙の上では、色が“落ち着いていく”プロセスがあった。

 ウルトラマリンの粒子が紙の凹凸に溜まり、バーントシェンナが光を吸い、グリーンアースが縁を滲ませる。

 それらは混ざり合いながらも、分離しながら沈んでいく。


 それは、“風の余韻”のようでもあり、“呼吸の記録”のようでもあった。


 「画面の色は、どこに重なってるんだろう……」


 葵はぼそりと呟いた。

 液晶パネルの色は、レイヤーを持っているのだろうか?

 それとも、全てが“同一平面の光”なのだろうか?


 葵は指先で、まだ湿った紙の角を触れた。

 冷たかった。水が蒸発する温度差が、指に伝わる。

 風景を描くという行為は、この冷たさを通じて行われているのだと知った。


 液晶は、温度を持たない。

 どれだけ鮮やかな色であっても、それが“濡れている”とか、“乾いていく”という気配を伝えることはない。


 色というのは、単に波長のデータではない。

 皮膚に触れる空気、蒸発する水、粒子の密度と、沈黙の時間――それらすべてが“色の実体”なのだ。


 絵の左端に描いた岩場のあたりで、にじみが予想よりも広がっていた。

 にじみの中心は、わずかに白が残っていた。

 葵はそれを、修正しなかった。


 それは、“風の抜け道”のように見えたからだ。


 液晶の画面は、完璧だった。

 写真は失敗しない。露出補正も、ホワイトバランスも、すでに最適化されていた。

 だが、それは“間違えることのない世界”だった。


 葵の絵は、間違いだらけだった。

 思ったより濃くなった色、にじんでしまった空、乾きすぎて固まった筆跡。

 それでもそこには、葵が何を見ようとしていたのかが残っていた。


 写真は「見えたもの」を記録する。

 絵は「見ようとしたもの」が残る。

 葵にとって、その違いは重要だった。


 「絵は、描きたかった“風”の手がかりみたいなものなんだと思う」


 手元の絵に指をかざすと、まだ冷たさがあった。

 それは、今この場所でしか生まれなかった温度だった。


 紙とパネルのあいだ。

 色はどちらにもあった。だが、

 質量があったのは、紙の上の色だった。


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