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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2041/2187

第197章 《写真にはない風》




 葵はタブレットの画面を見つめた。

 昨日撮った、まさにこの入り江の風景が、すました顔で収まっている。

 雲のかたち、水平線の位置、波の模様すら記録されていた。けれど、何かが抜け落ちていた。


 それは風だった。

 風の“動き”ではない。風そのものの“気配”――その、視覚には写らない揺らぎが、画面には存在しなかった。


 葵は筆を洗い、ウルトラマリンディープとイエローオーカーをパレットで合わせ始めた。

 その混色は、海の色になるはずだった。だが、タブレットに映っている「青」よりも、どこかくすんでいて深かった。

 少しずつローズマダーを加える。わずかに紫がかる。

 その色は、“昨日の写真”にはなかった色だった。


 けれど、目の前の波間には、まさにこの色が揺れていた。

 斜めから吹きつける風が水面をざらつかせ、太陽の光を微細な乱反射に変える。

 葵はその瞬間、画面を見ずに筆を紙に置いた。


 にじみが広がった。

 紙が濡れていたのだ。先ほどの空を描いた湿りが、まだ完全には乾いていなかった。

 水彩特有の“意図を超えた色の動き”が、青と赤と黄を含んだその一筆を、勝手に“風に乗せたような模様”へと変えていく。


 タブレットの画面は完璧だった。

 彩度もコントラストも高く、エッジはくっきり。

 それに比べて、葵の描く水彩画は、すべてが曖昧だった。

 線はにじみ、境界は滲み、色は重なるごとに“沈んでいく”。


 でも、それが――風に近かった。


 そもそも、風を描くことはできるのだろうか?

 かつて祖母にそう尋ねたことがある。

 祖母は答えた。


 > 「風は描けない。でも、風が通ったあとの草なら描ける。風に気づいた誰かの顔なら描ける」


 葵はその言葉を思い出しながら、絵具皿の中にできた濁った水の表面に浮かぶ、青緑の膜を見つめた。

 それは海だった。

 だけど、液晶には絶対に出ない色――顔料の粒子が偏って沈むことでしか生まれない“揺らいだ色”だった。


 風が強まった。

 画面の明度が一瞬落ちた。液晶表面に太陽光が直撃し、見えにくくなったからだ。


 でも、海はそのとき、最も美しく光っていた。


 葵は画面を見るのをやめた。

 風の音と波の跳ねるリズムの中で、筆先の色を微調整する。

 青と黄のバランス、濃度、紙の濡れ具合――すべてが“現在”に反応していた。


 風が見えない代わりに、紙の上では風が“にじんでいった”。

 にじみは制御できない。紙の繊維と水の速度に、葵の意思は割って入れない。

 でもその不確定さが、今この瞬間の風の“存在”を保証する何かに思えた。


 液晶には、風の“結果”がなかった。

 波が“止まって”いたからだ。

 でも目の前では、波が一度ごとに光を変え、色を溶かし、空気を動かしていた。


 葵は気づいた。

 「描く」という行為は、止まっていないものに触れようとする試みなのだ。


 絵の中に、少しずつ“風の色”が溜まっていく。

 それは青ではなく、灰緑でもなく、むしろ「曖昧な何か」だった。

 だが、描いているうちに、葵の身体がその“曖昧さ”を許容し始めているのを感じた。


 「風は描けないけれど――風の抜けた跡なら、残せるかもしれない」


 そのとき、風が画面を揺らした。

 画面の中の波が、まるで“嫉妬したように”青を強めた気がした。

 でもそれは、静止画だった。


 絵の中で、風はにじみ、紙はまだ濡れている。

 筆を置いたとき、葵は知っていた。


 液晶にはない風が、ここにはある。


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