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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2040/2187

第196章 《映像の中の海、目の前の海》



 海辺の風が、いつもよりも低い音で鳴っていた。

 まだ昼なのに、光は傾いている。葵は浜辺にシートを広げ、スケッチブックとパレット、そして小さなタブレット端末を置いた。画面には、昨日ここで撮った海の写真が映し出されている。


 水平線はまっすぐに伸び、海は透き通るような青に整っていた。雲はきちんと輪郭を持ち、陸地は薄い灰色で収まっている。


 けれど今、葵の目の前にある海は、そのどれとも違っていた。

 風が斜めに吹き、水面がざわめき、陽の角度で一瞬ごとに色が変わる。

 同じ場所で、同じ方角を向いているはずなのに、海は“同じではいられない”というふうに揺れていた。


 「青……じゃない」


 葵は呟く。

 いや、青いのかもしれない。だが、それだけでは足りない気がした。

 液晶の中では“青い”と断言できた風景が、目の前の空間では“青い”と呼ぶことすらためらわれる。


 水彩用紙に手を伸ばす。

 今日の紙は中目、サイズはF4。

 風があるから、四隅を小石で押さえた。

 ペットボトルの水を白磁の皿に注ぎ、筆に含ませる。

 まずは紙を濡らす。ウェット・イン・ウェットで空の色からにじませたい。


 紙が水を吸い始めると、表面の光がわずかに鈍くなる。

 手元のパネルの画面にも、同じ空が映っていた。だがそこには、水の重さも紙の毛羽立ちもない。

 液晶の色はきれいすぎた。正確すぎた。だが、それは**“止まっていた”**。


 目の前の空は、決して止まっていなかった。

 風で雲が裂け、陽が一筋だけ強くなる。すると、その光が海面に跳ね返って銀色の筋をつくる。

 その瞬間の色は、写真にはない。

 そして、水彩のパレットにもまだない。


 葵は、ウルトラマリンとバーントシェンナをほんの少し混ぜ、グレーに近い青を作る。

 それでも足りない。もう少し赤みが欲しいと思い、ローズマダーをほんのわずかに足す。

 その色は、写真の空の青とはまるで違ったが――今、目の前の海に落ちていた“ある瞬間”の光には近い気がした。


 タブレットの写真は、動かない。

 そこにある色は確かで、きれいで、安心感すらある。

 けれど、葵はそれを“見て”いるという感じがしなかった。

 むしろ、そこから“切り離されている”気がした。


 「見るって、何だろう?」


 風が紙をめくろうとする。小石を置き直す。

 その手の動作、重み、紙の水気、陽光――

 そういったものの全てが、“見ること”に含まれているのではないか、とふと思う。


 筆を置いた。

 最初の空を描き終え、にじみが落ち着くのを待つ間、葵はもう一度画面と風景を見比べた。


 画面の海は“鮮明”だった。だが、どこか乾いていた。

 目の前の海は、色の境界が曖昧だった。けれど、そこに**“風の気配”があった**。

 その違いを、なんと表現すればいいのだろう。


 写真は“見るために作られた”。

 けれど、この風景は、“見られるために存在している”わけではない。


 風が強くなってきた。パレットの水面が揺れ、空の色がそこに映り込んだ。

 葵はその色を、紙に写そうとは思わなかった。

 むしろ、“揺れたということ”を残したかった。


 「どう描けばいい?」


 液晶に聞いても、答えは返ってこない。

 波長のデータは、にじみや風の重さを教えてくれない。


 だから葵は、紙と空の間で、“今だけの色”を探すしかなかった。


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