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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2039/2187

第195章 風を描く支度》



 山の端に朝の光が届くよりも早く、葵は筆洗バケツを洗い終えていた。

 寺子屋のある建物は、廃校になった小学校の校舎をリノベーションしたもので、分厚い木の扉の上に小さく「第四分校」と書かれていた。今では誰もその名前で呼ばない。皆《新寺子屋》とだけ言う。


 新寺子屋の教室は、ひとつの大きな円形スクリーンと、壁際に並ぶ端末と、そして中央の古い黒板で成り立っている。

 その朝の授業は《フクロウ》と名乗るAI教師が、「見るとは何か?」をめぐって、こんな問いを出していた。


「目で見るものと、心で感じる色は、同じですか?」


 誰も即答しなかった。

 その静けさを破るように、《フクロウ》は海の映像を一枚映し出した。

 HDRで撮影された鮮明な瀬戸内海。白い波、青い空、整った水平線。


「これは“美しい風景”でしょうか? それとも、“美しい記録”ですか?」


 葵は、その問いがずっと頭の中でこだましていた。

 だから、授業のあと、校舎の裏にある小さな倉庫に立ち寄った。


 そこには地元の美術教師・白石先生がいた。

 短髪で、日に焼けた肌の、いつも靴が泥だらけの人。

 彼は、画材を手渡しながら、特に説明もせず、ただ一言だけ言った。


「水彩を選ぶか? それともアクリルか?」


 「水彩で」


 そう答えると、先生は木箱の中からひとそろいのセットを出してきた。

 ●スケッチブック(ホワイトワトソン中目、F4)

 ●透明水彩24色セット(シュミンケ・ホラダム)

 ●丸筆3種(5号・10号・14号)とリセーブルの平筆

 ●白磁パレット

 ●スポイト、クロス、練り消し、予備の鉛筆とミニトレー


「混ぜすぎるなよ。海の青は一色じゃない」

 そう言って、先生は目を合わせずに教室の奥へ戻っていった。


 海までの道は、瓦屋根の集落を抜けて、ゆるやかに下る坂道だった。

 春の終わり、風はまだ冷たく、空は霞がかかっていた。

 畦道にはハルジオンが群れ咲き、風で一斉にそよいでいた。

 田んぼに張られた水が、空の色を揺らしていた。


 荷物は少し重かったが、葵はそれが心地よかった。

 画材の重みは、いままでの「見る」こととは違う、「描く」ための質量だった。

 目に入るすべてのものが、まだ紙に載っていない色のように感じられた。


 瀬戸内海に面した砂浜に着いたのは、日が中空に昇りかけたころだった。

 穏やかな入り江で、波はほとんど立たない。

 でも、光だけは、ずっと動いていた。


 葵は砂を払い、シートを広げ、スケッチブックを置き、タブレットを横に置いた。

 昨日撮った海の写真。HDRで記録された「完璧な青」だった。

 でも、今日の海は――違って見えた。


 風が斜めに吹いている。

 水はざわめき、光は割れ、空はにじんでいた。


 そして、筆を水に含ませたところから、**第1章《映像の中の海、目の前の海》**が始まる。


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