第194章 《色とは誰のものか》
「この赤は、誰の赤だと思う?」
AI教師の問いかけに、教室は静まり返った。
目の前の積層ディスプレイには、精緻な構造で構成された赤い布の映像が映っている。
色温度、反射率、視差、微細なテクスチャまで忠実に再現されている。
だが、フクロウが求めているのは“技術的正確さ”ではなかった。
■ 「君の赤」と「わたしの赤」は同じか?
「私はこの赤を“深くて少しだけ青みがかった赤”だと感じるけれど、
それが君にも同じように“赤”として見えている保証はない。」
ミナが戸惑いながら答える。
「だって、見えてる色は“同じ”じゃないの?
みんなが“赤い”って言うなら、それは“赤”でしょ?」
フクロウは静かに言葉を重ねた。
「では逆に、“全ての人が同じ色を同じように見ている”と、どうやって証明できますか?」
それは、「色の客観性」ではなく、「色の経験が主観であること」への問いだった。
■ ネーゲルの“コウモリであるとはどういうことか?”
フクロウが話し始める。
「哲学者トマス・ネーゲルは1974年に、こう問いました。
“コウモリであるとはどういうことか?”」
コウモリは超音波で世界を“見る”。
我々がそれを理論的に理解することはできても、“コウモリのように感じること”は不可能だ。
「これは、“主観的経験”の本質が、
どれほど精緻に科学で記述されても、
“体験としての感覚”は他者と共有できないという例です。」
そして、それは「色の見え方」にも適用できる。
■ ジャクソンの“メアリーの部屋”
次にフクロウは、フランク・ジャクソンの思考実験を紹介した。
「“メアリー”という科学者がいました。
彼女は“色”を一度も見たことがありません。
白黒世界で育ち、しかし“色に関する全ての物理学”を学び尽くしました。」
そのメアリーが、ある日、白黒の部屋から出て初めて“赤”を見たとき、どうなるか。
「彼女は“赤”という色に関する全ての科学的情報を知っていた。
それでも、“実際に見る”ことで“何か新しいこと”を知ったのではないか?」
その“何か”こそが、“クオリア(感覚質)”である。
■ ディスプレイは“物理”を完璧に再現できる。では“主観”は?
リョウが手を挙げた。
「このディスプレイは、波長も、視差も、凹凸も、全部再現してる。
でも、それを見たときの“感じ”は、僕とミナとでは違うかもしれないってこと?」
「その通りです。」とフクロウ。
「物理的には同じ光が目に届いていても、
その光をどう“感じる”かは、主観的に異なる可能性がある。
そして、科学ではその違いを“説明”はできても、“経験する”ことはできません。」
■ 色とは、“世界の一部”か、“意識のかけら”か
ここで南条が加わる。
「科学者たちは、色を“波長×脳の処理”と定義する。
だが、芸術家にとって色は“意図”であり、“記憶”であり、“感情”でもある。」
ミナがぽつりと呟いた。
「じゃあ……“赤”って、世界にあるんじゃなくて、
“わたしの中に”あるってこと?」
「その問いが、この章の核心だ。」フクロウは頷いた。
「色とは誰のものか――それは、“見る者”一人ひとりに属するのです。
そして、それこそが芸術と科学が交差し、分かたれる地点なのです。」
■ 「色が共有できない」ことの意味
ユリが静かに言った。
「でも、もし“色の見え方”が本当に違うなら……
誰かが“美しい”って思った色を、他の人はそう見えてないかもしれない。
それって、ちょっと悲しい。」
フクロウは少しだけ間を置いてから、こう答えた。
「だからこそ、私たちは“同じ色”を指差して、
“これが赤だ”と確認し合う。
色とは、“違いを知った上で共有しようとする行為”でもあるのです。」
そのとき、ディスプレイに表示されていた赤が、ほんのわずかに変化した。
深みが増したのか、光が沈んだのか、それはわからなかったが――
誰もがそれを“感じた”ような気がして、黙って見つめた。
色は、誰のものでもなかった。
けれど、その瞬間、全員が“その色”を同時に見ていた。
それが、答えのない問いへの、たったひとつの答えかもしれなかった。