第190章 《哲学的視覚構造 ― “見る”とはどこで起きているのか》
講堂の灯がすべて落とされ、完全な闇が降りた。
子どもたちは、誰も声を上げなかった。
「何が見えるか?」
フクロウの声が、真っ暗な空間に柔らかく響いた。
「……何も、見えない。」
リョウが答えたそのとき、一点の光が現れた。
それは、蝋燭のように揺れる微弱な光で、ゆっくりとした軌道を描いて講堂の空間を漂っていた。
【1】視覚は網膜に始まり、脳で終わるのか?
南条が語り始めた。
「我々が“見ている”というとき、
そのプロセスはどこから始まり、どこで終わるのだろうか。」
「網膜に像が結ばれるところから?」とミナが答える。
「では、網膜に結ばれても、脳が反応しなければ“見た”ことになるのか?」と南条。
視覚系の図が投影される。
網膜 → 視神経 → 視交叉 → 外側膝状体 → 視放線 → 視覚野V1。
だがそこから先には、言語野、記憶野、前頭前野、辺縁系――
視覚は、“見る”を超えて、認知の網の中に拡張していく。
【2】見える=知覚される、ではない
フクロウが問いを投げる。
「目の前にあるものが見えているとして、それが“意味あるもの”であると、どうして分かる?」
子どもたちは沈黙した。
「君たちの脳は、ただ光を受け取るのではない。
光のパターンを“構造”として認識し、“意味”を与えて初めて、“見た”ことになる。」
たとえば文字。
未習得の言語の文字列は“形の連なり”にしか見えないが、
読み慣れた文字列は、“一瞬で意味”として立ち上がる。
「つまり、“視覚”とは、感覚器官の働き以上に、
“記憶と経験による意味構築の作用”を含んでいる。」
【3】AIが“見る”とき、そこに“意識”はあるか?
講堂のスクリーンに、先ほどのAIカメラの映像が再び流れる。
人間の動きに反応して、識別タグが次々と表示される。
「人・立位・25歳前後・注視中」……正確だ。
だが、それは**“見ている”のか、“処理している”だけなのか?**
リョウが言う。
「なんだか、“判断してる”ようには見えるけど、“感じてる”ようには見えない。」
南条が頷く。
「その違いをどう定義するかが、“視覚の哲学”だ。
AIは視覚入力を処理できる。だが、
その内部で、“何かを見た”という経験が存在しているとは限らない。」
ここでフクロウが静かに言った。
「視覚とは、世界の中に身体が“晒される”ことだ。
そしてその“接触”を、内側から経験する感覚――それを人間は“見る”と呼んできた。」
【4】“意味の視覚”は、身体と関係の網の中にある
新たに投影されたのは、モーリス・メルロ=ポンティの一節。
“私は物を見るのではない。
私の身体が世界のうちにあって、触れ返されることで、
その世界が“見える”ものとして立ち上がるのだ。”
フクロウが翻訳するように語った。
「君たちの目は、単なる“カメラ”ではない。
君たちの身体は、世界の中に浸され、
“そこに在るもの”として感覚が染み込んでくる。
それが“視る”という経験だ。」
視覚とは、情報の入力ではなく、
身体が世界のうちにあるという“関係そのもの”の形式なのだ。
【5】見ることは、“世界と共にある”こと
蝋燭のような光点が、ふたたび空間を漂っていた。
だが今度は、それがゆっくりと講堂の子どもたちを照らしていく。
誰も言葉を発さず、ただじっと、光を見つめていた。
フクロウが言った。
「AIが視覚を手に入れ、カメラが模倣を果たし、
ディスプレイが網膜を超えて描写しても――
“見る”という行為には、なお、世界との“わたし的関係”が残る。
そこに、技術では越えられない何かがある。」
南条が締めくくる。
「だからこそ、“見る”を模倣することには意味がある。
その模倣の中でこそ、
人間の視覚とは何であるか――その本質が浮かび上がるからだ。」
照明が戻ったとき、子どもたちは皆、黙って前を見ていた。
だがその目は、さきほどまでとは違う“何か”を映していた。
それは、視覚という言葉の裏にある、
“生きていること”そのものの手触りだった。