第181章 《記録する波面》
講堂中央には、暗幕に覆われた不思議な装置が設置されていた。
箱のようなベースからは、三方向に鏡とレンズが伸び、天井から吊るされた一点に向けて整列している。
南条が言った。
「この装置で、今から“波を記録する”実験をする。」
ミナが目を輝かせる。
「“光を写す”んじゃなくて、“波を写す”? そんなことできるの?」
フクロウの声が教室に満ちた。
「それができるのが、ホログラフィーだ。」
【1】準備:参照波と物体波
スクリーンにレーザー光の経路図が投影される。
1.レーザー光源から出たコヒーレントな単色光が、2方向に分岐
2.一方は直接スクリーン(参照波 R)へ
3.もう一方は、物体に当たり、反射して戻る(物体波 O)
「この2つの光が、1枚の感光フィルムの上で出会う。
このとき、もし光が“粒”だったら、ただの明るさしか記録できない。
でも、光が“波”だからこそ――重なり合い、干渉する。」
講堂が暗くなると、スクリーン上に“縞模様”が浮かび上がった。
「この干渉縞こそが、光の“位相差”を記録したものだ。」
【2】干渉縞とは何か
フクロウが続ける。
「物体波 O は、物体の形・質感・反射・凹凸・距離によって、波の“ズレ”=位相が変わっている。
参照波 R とそのズレを持つ O が出会うことで、強め合う点と打ち消す点ができ、干渉縞が生まれる。」
リョウが食い入るように見る。
「これ、単なるシマシマにしか見えないけど……本当にこれに“立体”が刻まれてるの?」
南条が応じる。
「見えないけど、“光の揺れ方そのもの”が記録されてる。
たとえるなら、風の通った草原の“揺れの軌跡”を、凍らせて残したようなものだ。」
フクロウがスライドを展開した。
【3】数学的モデル:波面の記録式
物体波を
参照波を
としたとき、感光材料に記録される強度は:
I(x, y) = |O(x, y) + R(x, y)|²
= |O|² + |R|² + O·R* + O*·R
「この第3項・第4項が“干渉項”であり、物体波Oの位相を含んだ構造が現れる。
この干渉縞がナノ〜ミクロン単位の回折格子として、記録材料に“凍結”される。」
【4】干渉縞に刻まれるもの
フクロウが言った。
「この1枚の干渉縞には、**三次元空間上の“すべての方向から見た光の情報”**が内包されている。
なぜなら、波面そのものを記録しているからだ。
これは、カメラでは決してできない。
カメラは2次元の投影しか写さない。」
ミナが息をのむ。
「じゃあこの模様が、“波の記憶”ってこと……?」
「その通りだ。」南条が答えた。
「この干渉縞は、物体の形や材質ではなく、“そこから来た光そのもの”を封じ込めている。
つまり、“存在の波”がそこにある。」
【5】記録材料の選択と精度
フクロウが展示台に並んだ素材を紹介した。
•銀塩感光材料(高分解能、微細干渉縞の記録が可能)
•フォトポリマー(高耐久、デジタル多波長対応)
•LCoS液晶パネル(動的ホログラム合成用)
「干渉縞の再現には、3000〜6000ライン/ミリ以上の解像度が必要。
つまり、電子回路では表現できない空間周波数が、ここに記録されている。」
リョウが言った。
「じゃあこの一枚に、“波そのものの世界”が丸ごと刻まれてるんだ……」
【6】哲学的な問い
南条が締めくくるように言った。
「カメラは、“像”を写す。
ホログラムは、“光”を写す。
そしてその光とは、“そこに存在していたもの”が空間に刻んだ波の記憶だ。」
フクロウが補足する。
「“見る”とは、“光に触れること”だ。
ホログラムは、“過去に存在した光”を、未来の空間に再構成できる唯一の方法。
だからこそ、これは記録ではなく、“再現”だ。」
講堂に光が戻った。
子どもたちの前に置かれた透明な板は、ただのフィルムのように見えた。
だがそこには、すでに波が記録されていた。
それは、空間の振動の記憶。
物体が“そこにあった”ことの、物理的な証明。