第178章 《脳が作る風景》
講堂の天井に、奇妙な図形が映し出されていた。
二本の同じ長さの直線。だが、片方には内向きの矢羽、もう片方には外向きの矢羽がついている。
ミナが手を挙げる。
「これ、下のほうが長く見える。でも……本当は同じなんでしょ?」
「その通り。」フクロウがうなずいた。
「これは“ミュラー・リヤー錯視”と呼ばれる、視覚の認知構造のねじれを示す古典的な図だ。」
ケイが首をかしげた。
「でも、なんでそんなふうに見えるの?」
フクロウは講堂中央のプロジェクションを切り替えた。
そこには、人間の脳の視覚野が立体的に表示されている。
第1節:視覚の“分業制”
「君たちが目で見ている世界は、網膜で像が作られ、それが脳のV1野へと送られる。
だが、そこから情報は“並列処理”される。たとえば――」
•V2:エッジ(境界)認識
•V3:運動や奥行きの処理
•V4:色彩と形状の統合
•V5(MT野):動くものの追跡
「つまり、“見る”という行為は、脳内の複数のモジュールが協調して初めて成立している。」
南条が補足した。
「しかも、その処理は常に“予測”とセットなんだ。
君たちは、目で現実をそのまま見ているわけじゃない。“見えているべきもの”を、脳が先に仮想的に作っている。」
第2節:予測と補完の連携
リョウが手を挙げた。
「この前、雨の日に白い壁が緑に見えたんだ。周りの反射光のせいかなって思ったけど……」
「鋭い観察だ。」フクロウが応じる。
「色は“絶対的な波長”ではなく、“相対的な判断”によって知覚される。
これを**色の恒常性(color constancy)**という。」
投影画面には、同じオレンジの立方体が、青っぽい照明と赤っぽい照明のもとでまったく違う色に見える様子が表示された。
「君たちの脳は、“環境の光”を推測して、それを“補正”してから“この物体はこういう色だ”と判断している。
つまり、色は“目で見ている”のではなく、“脳が推定している”。」
ミナがうなった。
「じゃあ、私が今見てる“景色”も、ほんとは“脳の中の風景”なのか……」
第3節:盲視と逆転世界
南条が黒板に文字を書いた。
「“盲視”って知ってるか?」
ケイが答える。
「目は見えてないのに、障害物を避けられる人の話?」
「そう。」南条は頷いた。
「視覚野V1が損傷して“意識的な視覚”が失われても、視床から直接MT野に信号が届くことで、“無意識の視覚”が残る場合がある。
つまり、見る=意識 ではない。」
フクロウが続けた。
「さらに興味深いのは、“視界が上下左右に反転したメガネをかけた人が、1週間で“正しく見える”ように適応した例だ。
脳は、“見える像”を物理的に理解しているのではなく、“身体との関係性”で理解している。」
第4節:視覚は構築される
フクロウは言った。
「君たちが“風景”として感じているものは、光の束ではない。
視覚信号 × 運動情報 × 記憶 × 期待 × 感情によって構築された“知覚の成果物”だ。」
講堂が静まり返った。
ミナが呟く。
「じゃあ、“目で見てる世界”って、全部、脳の中の劇場なの?」
「いい表現だ。」南条が微笑む。
「世界を作っているのは光じゃない。“知ろうとする行為”そのものが風景を作る。
だから――世界は、見た人の数だけある。」
締め
フクロウは講堂の照明を一つずつ落とし、最後に一つの小さなろうそくを灯した。
その淡い炎に照らされた子どもたちの顔は、それぞれ違う色に染まって見えた。
だがそれは、世界が違うからではない。
それぞれの“脳”が、異なる“風景”を作っていたからだった。