第174章 《液晶の目、紙の目》
講堂の壁に設置された大型のディスプレイが、暗がりの中でぼんやりと光っていた。画面には、一枚の絵が表示されている。
淡い青空と赤い椿。背景に霞んだ山。
それは古い絵本からスキャンされた画像だった。
「この絵を覚えておいてください。」とフクロウが言った。
数秒後、照明がつき、子どもたちの前に印刷された同じ絵が配られた。
リョウは眉をひそめた。
「……なんか、違う。」
「どこが違うと感じる?」フクロウが尋ねる。
ミナが紙を傾けながら答えた。
「光ってない。あと……椿の赤が、ちょっと濁ってる?」
「いい観察だ。」フクロウは天井の照明を調整し、紙の上に斜めから光を当てた。
「ディスプレイは“自ら光る”が、紙は“光を反射する”。君たちは今、それを身体で感じている。」
講堂のスクリーンに、新たな図が投影される。
一方にはディスプレイ構造図──RGBフィルタとLEDバックライト。
もう一方には紙に乗ったCMYKインクの断面図。
「ディスプレイは加法混色、つまり、赤・緑・青の光を重ねて色を作る。
一方、印刷は減法混色。シアン・マゼンタ・イエローのインクで“光を吸収して”残りの色を反射する。」
ケイが疑問を投げる。
「でも先生、見た目は似てるよね?ディスプレイの赤と、紙の赤。」
「よく見れば違うはずだ。」フクロウは答える。「色が“似て見える”のは、三刺激型視覚による錯覚。スペクトル構成はまったく異なる。」
壁に、2つのスペクトル分布図が表示される。
左はディスプレイの赤:狭く鋭い633nmのピーク。
右は印刷の赤:広がった吸収帯域と不完全な反射波。
「RGBの赤は“赤い光”そのもの。CMYの赤は、“緑と青を吸収した残りの反射光”。
君たちの目は、異なる原因から生じた“結果”を同じ“赤”と認識してしまう。」
ミナは紙を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「じゃあ……ディスプレイで見た絵って、本物じゃないのかな。」
南条がゆっくりと立ち上がった。
「むしろ逆かもしれんよ。」
「逆?」
「ディスプレイの“赤”は、君の網膜に直接、赤い光が届く。
だが、紙の赤は、周囲の照明の条件に左右される。
紙の色は“環境の中の現象”だが、ディスプレイの色は“純粋な光の指示”だ。」
リョウがつぶやく。
「でも……なんか、紙の方が“あったかい”感じがする。」
フクロウが頷いた。
「それは物質的な厚み、微妙なインクのムラ、光の散乱など、複数の物理的要因が“色に深み”を与えているためだ。
また、紙の色は“周囲の空間”と一緒に存在している。空間の光と相互作用していると言ってもいい。」
フクロウは、ディスプレイと印刷を並べた状態で、ルーペを一人ひとりに手渡した。
「これで細部を見てごらん。」
リョウはディスプレイの画素に目を近づけた。小さな赤・緑・青の三角形が並んでいる。
次に紙を見る。そこには微細な網点が、不均等に並んでいた。
手作業のような、粒の揺らぎがある。
「……なんか、生きてる。」
その声に、誰かがうなずいた。
「ディスプレイは“信号の正確さ”を持ち、紙は“身体性の痕跡”を持つ。
どちらが本物で、どちらが偽物か――それは、色の“意味”をどこに求めるかによって変わる。」
南条の言葉に、子どもたちはしばし沈黙した。
光を放つ板の色と、沈黙する紙の色。
両者の間には、わずか数センチの距離しかない。
だが、そこには数十年の技術と、数千年の人間の“知覚の進化”が詰まっていた。