第173章 《消えた絵の記憶》
講堂の中央に設置された長机の上には、古びた画集が一冊置かれていた。ページの端は焼けたように茶色く、印刷の色もどこか褪せている。少年リョウがその本を撫でながら、ぽつりとつぶやいた。
「……この絵、本当はもっと緑が深かったはずなんだ。」
AI教師のホログラムが、そのつぶやきを拾った。
「どんな緑だったのか、覚えているか?」
「覚えてる……はずなんだけど、思い出そうとすると頭の奥がモヤモヤして、違う緑が浮かんできちゃう。」
リョウは眉をひそめ、両手でこめかみを押さえた。
フクロウは周囲の子どもたちに向かって言った。
「みんなも同じ経験があるはずだ。色を“思い出そう”としても、記憶の中の色は変質する。今日はそれを実験してみよう。」
照明が落ち、壁のスクリーンに鮮やかな緑色の長方形が映し出された。
「この緑を10秒間見て、目を閉じてみて。」
子どもたちは一斉に目を閉じる。
「さあ、頭の中でその緑を描いてみて。」
やがてフクロウが問うた。
「どんな色になっている?」
「少し青っぽくなった。」
「黄色に近づいた感じがする。」
「消えちゃった。」
子どもたちの答えはばらばらだった。
「これが視覚記憶の再構成だ。」フクロウは説明した。「網膜で受け取った光情報は、視覚野V1、V2、V4など複数の領域で処理され、色の情報は主にV4が担う。しかし記憶として保持されるとき、海馬や前頭葉と結びつく過程で“書き換え”が起こる。」
南条が補足するように前に出た。
「つまり、君たちが覚えている色は、現実そのものではなく、脳が再構成したイメージなんだ。まるで写真データをJPEGで何度も保存し直すと劣化するように。」
リョウは困惑した表情で画集を見つめた。
「じゃあ、僕の中の緑はもう消えちゃったの?」
「消えてはいない。」南条は静かに言った。「**変化しただけだ。**君の記憶の中で、その緑は別の意味を持ち始めている。」
フクロウが手を振ると、壁にCIE 1931色度図の馬蹄形が投影された。
「たとえば、ここにある“緑”は物理的には波長520nm付近の光だ。しかし、同じ520nmでも照明の色温度や周辺色によって見え方が変わる。脳はそのときの“文脈”を添えて色を記憶する。」
ミナが手を挙げた。
「じゃあ、私が覚えている“青い海”も、実際には青じゃなかったかもしれないの?」
「その可能性はある。」フクロウは頷いた。「海のスペクトルは青緑から深い紺色まで変動するし、大気や日光の角度によって散乱光の波長分布が変わる。君の脳が“青”として記憶したのは、その瞬間の光の条件と感情が結びついた結果だ。」
リョウは画集を閉じ、しばらく黙っていた。
やがて小さな声でつぶやいた。
「じゃあ……僕が覚えてる“緑”は、僕だけの緑なんだね。」
フクロウのホログラムが微笑むように光った。
「そうだ。**色は世界にあるのではなく、君の中にある。**そしてその記憶は、世界の“真実”よりも、君が世界に与えた意味を映している。」
講堂の隅に置かれた古い額縁が、淡い光を反射していた。
子どもたちはしばらく無言で、その光景を見つめていた。
緑か青かもわからない、褪せた色の中に、それぞれの“記憶の色”を重ねるように。