第172章 見ること
山間に白く霧が立ちこめていた。
四国の奥深く、林道を潜った先に、苔むした防空壕のようなコンクリートの入口がある。
その地下には、かつて気象観測所だったトンネルを改装した空間が広がっている。
それが、新寺子屋《第零分校》。
冷たい空気を押し分けて、十人ほどの子どもたちが、静かに教室に集まっていた。
長机、壁一面の黒板、そして宙に浮かぶ卵型のホログラフィック端末。
それが、AI教師だった。
「見るとは、どういうことか?」
朝のチャイムが鳴ると同時に、フクロウの声が響いた。
それは生物の声に近いようで、どこか無機質でもある。不思議な質感だった。
「今日、君たちに最初に問うのは――**『見るとは、どういうことか?』**ということだ。」
ミナが手を挙げる。
「目で見る……ってこと?」
フクロウが少しだけ瞬きをするように、光を揺らした。
「よい。だが、君たちは“目で見る”ことが、どうやって成り立っているかを知っているだろうか?」
【1】光が物体を“照らす”だけでは不十分
壁に投影されたのは、一枚の木の葉の写真。
それにレーザー光が当たると、影ができ、輪郭が際立った。
「光は物体に当たると、いくつかの経路をとる。」
フクロウの言葉に合わせて、図が変化していく。
•一部の光は吸収され、熱に変わる(葉があたたかくなる理由)
•一部の光は反射する(これが“見える色”)
•透明なものは光を通す(屈折=進行方向が曲がる)
リョウが質問する。
「じゃあ、“見える”って、反射してきた光を見てるの?」
南条が静かに歩み出て、レーザーの当たった黒板を指差した。
「その通り。私たちは、物体そのものを見ているのではない。
物体に反射した“光”を見ている。
たとえば、黒い物体は、ほとんど光を吸収してしまうから、あまり見えない。
白い紙は、光を多く反射するから、明るく見える。」
【2】光が目に届いて初めて“像”が生まれる
フクロウが続けた。
「反射した光が目に届くまで、君たちは何も“見ていない”。
では、目の中では何が起きているか?」
ホログラムが眼球の断面図を浮かび上がらせる。
•角膜:外から入る光を最初に屈折させるレンズ
•水晶体:焦点を合わせる調節レンズ
•硝子体:光を通して、網膜へ導く透明なゲル状空間
•網膜:光を受け取る“センサー”
ケイが言う。
「つまり、目って……カメラと一緒?」
「よく観察している。」
フクロウが頷く。
「しかし、カメラは“映像”を記録するだけ。
目は“意味ある像”を構築する。
その違いが、次の話につながる。」
【3】“網膜”はセンサーであり、翻訳者でもある
ホログラムには、網膜の細胞がズームで映し出された。
•錐体細胞(色を感じる、主に明るい場所で働く)
•桿体細胞(明暗・動きに敏感、夜間に活躍)
「光が網膜に届くと、それは電気信号に変換され、視神経を通って脳へ送られる。
だが――その時点では、まだ“見ている”わけではない。」
ミナが聞き返す。
「え、でも光が目に入ったら、見えてるんじゃ……?」
南条が静かに言った。
「いいや。君が“見ている”のは、“脳が解釈した結果”だ。」
【4】視覚は“入力”ではなく、“構築”である
フクロウが静かに語る。
「君たちは“網膜に写った像”を見ているのではない。
脳はそれを切り取り、補完し、意味づけし、像を“作っている”。」
•中心視野は高解像度だが、周辺はぼやけている
•目は1秒に3〜5回、細かく動いて視界をスキャンしている
•動いているのに、私たちは“止まった世界”を見ているように感じる
「つまり、私たちは、“脳が作った幻像”を“現実”として見ている。
“見る”とは、ただの感覚ではない。**“構築された世界”なのだ。」
ミナが小さくつぶやいた。
「……じゃあ、私が毎日見てる世界は、
本当は、私の脳が勝手に作ってるのかもしれない……?」
フクロウが柔らかく返す。
「そう。
でも、その“勝手な構築”こそが、“現実”として君を支えている。」
結び:見ることは“世界を再構成すること”
チャイムが鳴る直前、フクロウが言った。
「今日から、君たちは“見えるもの”を疑い、“見えないもの”に耳を澄ませていく。
視覚とは、光ではない。脳でもない。
それは“知ろうとする意志”が生み出す、最初の物語なのだ。」