第170章 芸術とスケール感覚
朝霧が晴れ、山裾の寺子屋の屋根が光を受けた。
小鳥の声、木々のざわめき、遠くから聞こえる川の音。
すべてが“調和”している。
Ω教授は、その音をしばらく黙って聴いていた。
「今日のテーマは――芸術だ。」
板書する手が止まる。
チョークで書かれた文字は、やや斜めに傾いていた。
> 『芸術=有限の中に無限を映す行為』
生徒たちは顔を見合わせた。
科学、哲学、情報論――ここまで扱ってきた講義に比べて、
あまりに“柔らかい”題だったからだ。
Ⅰ. 宇宙を奏でる実験
教授は机の上の小さな電子ピアノを指さした。
「このピアノは、周波数を自由に設定できる。
今日は“宇宙の音”を鳴らしてみよう。」
生徒のひとり――音楽専攻だった少女が前に出た。
彼女はデータ端末を開き、星々のスペクトル波長をピアノ音階に変換していく。
――シリウスの青白い光、太陽の可視スペクトル、
木星の電磁波ノイズ、そして宇宙背景放射の残響。
それらを周波数に変換し、鍵盤を押す。
最初の音が響いた瞬間、
講堂の空気がわずかに震えた。
低く、深く、底なしの響き。
まるで“宇宙そのもの”が息をしているようだった。
教授は目を閉じて言った。
「――聞こえるかい?
これは、137億年前の“光の名残”だ。
音に変えることで、ようやく私たちはそれを“感じる”ことができる。」
Ⅱ. 感性のスケール変換
教授は板書を続けた。
> 理性:無限を解析する力
> 感性:無限を感じ取る力
「理性は、無限を“測る”ことはできる。
しかし、感性は無限を“生きる”ことができる。」
生徒のひとりが手を挙げた。
「でも先生、感じるって、あまりにも主観的じゃないですか?
科学的じゃない。」
Ω教授は頷きながら微笑んだ。
「主観こそ、人間が宇宙と繋がる“最後の窓”なんだよ。
感性は、スケールを測るのではなく、“越境”する。
そして、越えたときに私たちは“美”と呼ぶ感覚を得る。」
彼はチョークで、黒板に円を描いた。
> 有限の円の縁=無限が触れる場所
「芸術とは、この“縁”に触れようとする行為なんだ。」
Ⅲ. 美とは知性の呼吸
再びピアノの音が鳴った。
今度は、銀河の回転速度を基にしたテンポ設定だった。
ゆっくりとしたワルツのような旋律。
だが、拍子は完全には安定せず、時折“ずれる”。
教授は小さくつぶやいた。
「ズレている……それがいい。」
生徒が笑う。
「失敗じゃないんですか?」
「いや、“完全”には息ができない。
それこそが生命であり、芸術なんだ。
美とは、秩序と混沌の呼吸のようなものだよ。」
静寂の中、ピアノの音が次第に弱まっていく。
最後の音が消えると、教室の外から風が吹き込んだ。
竹林がざわめき、鳥が一羽、屋根の上を横切った。
Ⅳ. 講義の終わり ― 感性の残響
教授は黒板を見つめ、最後の言葉を書いた。
> 「芸術とは、有限の存在が無限を想うときに生まれる光」
そして静かにチョークを置く。
「だからこそ、芸術は知性の“補助輪”じゃない。
むしろ知性が自分の限界を知るための鏡なんだ。」
生徒たちは誰も言葉を発しなかった。
ただ、風と光と音が交わるその瞬間を、
ひとりひとりが“自分のスケール”で感じていた。
教授はその沈黙を見届けて、
小さく呟いた。
「――この静けさの中に、すべての知性が還っていく。」