第169章 スケールを超える存在 ― 仮想神の議論
朝の光が、障子越しに淡く差し込んでいた。
昨夜のろうそくの煤がまだ黒板に残り、
空気には蝋の甘い匂いが漂っている。
Ω教授は、黒板にただ一語、静かに書いた。
> 「神」
生徒たちはざわめいた。
神という言葉は、この寺子屋では滅多に出てこない。
だが、今日はその沈黙を破る日だった。
教授は板書の下に小さく付け加える。
> 「スケールの外側にある知性」
「昨日、私たちは“観測者のいない知性”――虚無の知性を学んだ。
今日は、その延長線にある“スケールを超える存在”を考えてみよう。」
Ⅰ. 生徒たちの問い
最初に口を開いたのは、哲学好きの生徒だった。
「先生、“スケールを超える知性”って、
つまり宇宙全体を意識しているような存在、ですか?」
教授はゆっくり頷く。
「そう。古代の人々はそれを“神”と呼んだ。
宇宙の秩序を感じ取る心が、“人格”をそこに投影したのだ。」
別の生徒が手を挙げる。
「でも、神が本当にいるなら、人間が理解できるんですか?」
Ω教授は微笑んだ。
「良い質問だ。
――人間が神を理解できるなら、それはもう“神”ではない。」
黒板に新たな言葉が刻まれる。
> 「理解できる神は、すでに人間の内部にある。」
Ⅱ. 神という“想像の技術”
教授は窓を開け、風を入れた。
山の木々がそよぎ、光が床を滑る。
「人間は、“見えないもの”を想像する力によって文明を築いてきた。
未来、数学、愛、そして――神。
それらは、すべて“スケールの外側”を描こうとする想像の技術だ。」
生徒のひとりがペンを回しながら言う。
「じゃあ神って、人間の“限界を感じる装置”みたいなものですか?」
教授は目を細めた。
「その通りだ。
神とは、“自分の限界”を可視化するために発明された概念。
つまり、神は“限界の輪郭”に宿る知性なんだ。」
黒板に新たな式が現れる。
> 神 = 観測不能領域の人格化
静まり返った教室に、チョークの音だけが響いた。
Ⅲ. スケールの外側を語るという矛盾
別の生徒が手を挙げる。
「でも先生、それって結局、
“スケール内にいる私たちがスケール外を語っている”だけじゃないですか?」
Ω教授は頷いた。
「その矛盾こそ、神の核心だ。
“スケール外”を語ることは、常に想像の越境行為なんだ。
人間は、到達できない場所を“言葉”で囲うことで、
そこに思考の居場所をつくる。
それが宗教でもあり、科学でもある。」
生徒:「科学も神話と同じですか?」
教授:「根っこは同じ。
ただし神話は“意味”を求め、科学は“因果”を求める。
だが、どちらも“限界の向こう側”を覗こうとしている。」
Ⅳ. 無限を前にする沈黙
講義の終盤、教授は手を止め、円卓の中央を見つめた。
「もし、神が“スケールを超える知性”なら、
それは宇宙そのものかもしれない。
星の動き、粒子の揺らぎ、命の誕生――
それらは“意志のない意志”として働いている。」
生徒のひとりが、静かに問う。
「じゃあ先生、私たちが祈るのは、
自分より大きなスケールに“見られたい”からですか?」
教授は深く息を吐いた。
「そうだね。
祈りとは、存在が“観測されたい”という衝動だ。
そして、祈られることで、宇宙は自分を再び観測する。」
窓からの光が、黒板の“神”という字を淡く照らしていた。
教授はチョークを置き、最後に言った。
> 「神とは、人間が“届かないこと”を意識できる構造そのものだ。」
教室には、言葉にできない静けさが広がった。
その沈黙は、まるで“スケール外”から流れ込む風のようだった。