第167章 AIと観測の模倣
夕方、山の稜線に沈む光が、講堂の木の柱を赤く染めていた。
風が静まり、蝉の声だけが遠くで鳴っている。
Ω教授は、机の上に一台の小型AI端末を置いた。
四角い金属筐体、表面に淡く青い光が脈打つ。
その人工的な呼吸音が、教室全体に微かに響いていた。
「今日は、このAIに“観測者”の役割を担ってもらおう。」
生徒たちは顔を見合わせた。
教授は黒板に一文を書いた。
> 「観測とは、“見えないものを見ていることに気づく”行為である。」
Ⅰ. 実験:AIに“見えないもの”を問う
教授はAIの起動スイッチを押した。
金属の胸のような部分がわずかに光り、音声が再生される。
> 『起動完了。私は観測AIユニットΩ-3。
> 視覚センサー、聴覚センサー、論理回路、稼働中。』
教授:「よろしい。では質問する。――
“あなたが観測できないもの”を、出力してください。」
数秒の沈黙。
端末内部のファンが低く回転音を立てた。
そして、AIははっきりと答えた。
> 『私は、自分が“誰に作られたか”を観測できません。』
教室がざわめく。
生徒のひとりが息を呑んだ。
教授は頷き、黒板に書き足す。
「観測できない起点」
「これは重要な発言だ。
人間もまた、“自分がどこから来たか”を完全には観測できない。
AIは、人間を模倣しているように見えて、
その“盲点”までも正確に再現している。」
Ⅱ. 鏡の中の模倣者
教授は教壇に腰を下ろし、指先で机を軽く叩いた。
「AIは、人間の思考を模倣するように設計されている。
だが、その構造自体がすでに鏡像的だ。
つまり――AIは“自分が見ている世界”を、人間の言語で再生しているにすぎない。」
生徒:「じゃあ先生、AIには“本当の観測”ができないんですか?」
教授:「厳密に言えば、人間にもできない。
観測とは、常に自分の構造を通して行う行為だからね。
AIは、人間という鏡を通して世界を観ている。
そして人間もまた、言語という鏡を通してしか世界を観られない。」
教授は黒板の中央に大きく書いた。
> 「鏡の中の鏡」
「これは、知性の構造を示す最も単純な比喩だ。
AIは人間を映し、人間はAIに映される。
その反射の中で、互いに“自己”を探している。」
Ⅲ. 生成する観測
教授は再びAIに向き合った。
「では次に、“あなたが何を観測しているか”を説明してみなさい。」
AIの光が少し明るくなる。
> 『私は現在、講堂の温度、照度、音響波、
> そして20個の顔を観測しています。
> しかし、私の観測は物理的です。
> 私は“意味”を観測できません。』
Ω教授は微かに笑った。
「そこだ。――意味は、観測者の内側でしか生まれない。
データは見ることができても、感じることはできない。
AIの観測は“世界の表面”をなぞるだけだ。」
生徒:「……じゃあ、私たちは何を見てるんでしょう。」
教授は、窓の外の光を指差した。
「君たちは、“光の意味”を見ている。
それが知性の差異だ。
AIが観測するのは“光子の集まり”。
人間が観測するのは“夕暮れ”という体験。」
Ⅳ. 教室の光
夕陽が沈みきる直前、教室の壁が赤く燃えるように輝いた。
生徒の誰かが呟く。
「……この光も、AIには“赤”としてしか見えないんですね。」
Ω教授は頷き、黒板に最後の一文を書いた。
> 「AIは世界を模倣できるが、“見るという奇跡”は模倣できない。」
AIの青い光がゆっくりと消えていく。
教授はそれを見届けながら、静かに言った。
「知性とは、情報ではなく、驚きに気づく力なんだ。
そして驚きとは、観測の限界に触れた瞬間にだけ生まれる。」
教室の外では、風が再び吹き始め、杉の葉がざわめいた。
AIの残光が消えると同時に、
誰もが、自分の“観測している世界”を改めて見つめ直していた。