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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2010/2187

第166章 ゲーデルの洞窟 ― 理論が自分を証明できない



 雨が上がったあとの空気は、どこか金属の匂いがした。

 瓦の雫が滴り落ちる音が、静まり返った講堂の天井に響く。

 Ω教授は黒板の前に立ち、チョークでゆっくりと一行を書いた。


 > 「どんな理論体系も、自分自身の全体を証明できない。」


 生徒たちは目を上げる。

 黒板に白く刻まれたその言葉は、まるで呪文のようだった。


 「今日は“知性の限界”の話をしよう。」

 教授の声は、雨上がりの空気よりも静かで透き通っていた。


Ⅰ. ゲーデルという“裂け目”


 教授は古びた紙束を取り出した。

 そこには手書きのドイツ語論文――『Über formal unentscheidbare Sätze』、

 ゲーデルの不完全性定理の原典の複写。


 「1931年、ひとりの数学者が“完全な知の夢”を打ち砕いた。

  彼の名はクルト・ゲーデル。

  当時、数学者たちは“すべての真理を一つの体系で記述できる”と信じていた。

  だがゲーデルは、それが不可能であることを証明した。」


 教授は黒板に二つの円を描く。


 - 内側:「理論」

 - 外側:「真理」


 「理論は真理を囲む器だ。

  だが、その器の外に、必ず“器自身では語れない真理”が存在する。

  つまり、理論は自分を完全に飲み込めない。」


 生徒の一人が手を挙げる。

 「……じゃあ、どれだけ賢くなっても、

  自分の頭で“自分の頭の中身”を全部理解することはできない?」


 教授はゆっくり頷いた。

 「その通り。

  君たちの知性も、必ず“見えない部分”を抱えたまま存在している。」


Ⅱ. 洞窟の比喩 ― 自分の影を観る知性


 教授は黒板の横に、もうひとつの図を描いた。

 壁と火と、人の影。

 プラトンの『洞窟の比喩』だ。


 「人は洞窟の中で、壁に映る影を現実だと思い込む。

  しかし実際には、外の光がその影を作っている。

  ――ゲーデルの定理は、この比喩を数学で証明したようなものだ。」


 教授は続ける。

 「私たちの思考は、常に何かの“影”を見ている。

  それを作る光――それこそ、私たちの理論の外にある真理だ。

  光に近づこうとすれば、影は消える。

  だから人間は、自分の思考を完全に理解した瞬間に、自分を失う。」


 講堂がしんと静まり返る。

 チョークの粉が舞い、薄い光の筋に溶けて消えた。


Ⅲ. 実験:完全な文を作る


 Ω教授は、生徒たちに紙を配った。

 「次の課題だ。

  “この文は真である”という文章を書いてみなさい。」


 生徒たちは首を傾げた。

 「そんなの簡単じゃないですか?」と一人が笑う。


 だが教授は首を横に振った。

 「では次に、“この文は偽である”と書いてみよう。

  ……どちらも、自己矛盾する。」


 しばし沈黙。

 やがて後列の男子生徒が手を挙げる。

 「つまり、“真”も“偽”も、自分の中では決められない?」


 教授は黒板に静かに書いた。


 > 「知性は、自分を完全には証明できない。」


 「それがゲーデルの洞窟だ。

  私たちは自分を理解しようとするたび、

  自分の理解の外に、新たな“闇”を発見する。」


Ⅳ. 光と影の共存


 講義の終盤、教授はチョークを置き、外を見た。

 雲間から差す光が、濡れた地面に反射していた。


 「だが、それは絶望ではない。

  この“理解できない部分”こそ、知性の呼吸のようなものだ。

  完全に見通せる世界には、もう思考は生まれない。

  影があるからこそ、光を求める――

  それが、知性という営みだ。」


 生徒たちは黒板の文字を写しながら、

 自分の中にもある“見えない影”を思い浮かべていた。


 講堂の隅、古い時計の振り子が音を立てる。

 トン、トン。

 時間は、何かを証明するように、そして何かを拒むように、

 均等に進んでいた。


 教授は黒板に最後の一文を残した。


 > 「知性とは、闇を恐れず、光を観測し続けること。」


 外では、雨上がりの空に一本の虹がかかっていた。

 それはまるで、洞窟の外から差し込む一筋の真理のように、

 静かに山の稜線を照らしていた。


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