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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2009/2172

第165章 自己を観測する ― メタ認知の誕生



 朝霧がまだ山の麓を漂っていた。

 瓦屋根を打つ露の音、遠くで鳴く鶏の声。

 その静けさのなか、寺子屋の古い木製ドアが軋む音を立てて開いた。

 Ω教授が白いチョークを手に、黒板の前に立つ。


 板書された文字は、ひとつだけ。

 「観測者とは、“自分が見ていること”を意識する存在。」


 教室の隅で、息を殺すように生徒たちが見つめていた。

 教授は振り返らず、霧に滲む声で言った。


 「今日は、“意識が自分を見る”という不思議な構造の話をしよう。」


Ⅰ. 「見る」ということの二重性


 教授は、手の中のチョークを軽く転がした。

 「たとえば君たちは、窓の外の山を見ている。

  だが次の瞬間、“自分が見ている”ことに気づく。

  ――その“気づき”の層が、知性の起点だ。」


 黒板に円を二重に描く。

 外側の円に「世界」、内側の円に「私」。

 そしてその間を貫く一本の矢印。


 「この矢印のことを、哲学者フッサールは“志向性”と呼んだ。

  意識とは、常に何かへと向かう運動だ。

  つまり意識には、閉じた静止など存在しない。」


 教授は少し間を置いて、別の言葉を添える。

 「仏教ではこれを“念”という。

  念とは“心を観る心”。

  思考を観察するもうひとつの自己だ。」


 生徒の一人が小さく手を挙げた。

 「……じゃあ、その“観察する自分”をさらに観察したら、どうなるんですか?」


 Ω教授は微笑んだ。

 「それが、“鏡の無限反射”だよ。

  どこまでも“見る自分”を追いかけても、

  最後には、観測者自身の姿は消えてしまう。」


Ⅱ. 実験:思考を観察する


 教授は腕時計を外し、机の上に置いた。

 「これから三分間、考えることをやめずに、それを“観察”してみなさい。」


 生徒たちは目を閉じた。

 鉛筆を握る音も止み、ただ呼吸の音だけが残る。


 一分後――。

 ひとりの女子生徒が顔をしかめた。

 「……考えを観察しようとすると、考えが止まっちゃいます。」


 教授は静かに頷いた。

 「そう、それが“観測の干渉”だ。

  人間は自分を完全には観察できない。

  見る瞬間に、見られる自分が変化してしまう。」


 窓の外、霧が晴れ、光が差し込む。

 黒板のチョークの粉が白く浮かび上がった。


Ⅲ. 鏡の向こう側にあるもの


 教授は黒板を消し、再び円を描いた。

 「この構造を、古代インドの哲学者は“二つの鳥”と呼んだ。

  一羽は果実を食べる鳥、もう一羽はそれをただ見つめる鳥。

  食べる鳥が“生きる私”、見つめる鳥が“観測する私”。

  両者が調和するとき、知性は自己を理解し始める。」


 しばし沈黙。

 生徒のひとりが、窓の外を見つめながら呟いた。

 「……じゃあ、観測している“もう一羽の私”は、どこにいるんでしょう。」


 教授は黒板にゆっくりと書いた。

 「意識の鏡」。


 「その問いが、“意識の鏡”を磨く行為だ。

  場所はない。形もない。

  だが、そこに映るのが“人間”という存在だよ。」


Ⅳ. 終講 ― 曇った鏡の中の光


 講義が終わる頃、霧が完全に晴れていた。

 遠くで風鈴が鳴る。

 生徒たちは静かにノートを閉じ、誰も席を立たなかった。


 Ω教授は黒板の端に最後の一文を残す。


 > 「知性とは、自分を見つめようとする意志のこと。」


 誰もそれを声に出さず、ただ見つめていた。

 黒板に光が反射し、一瞬、教室全体が鏡のように輝いた。

 その瞬間、彼らはほんの少しだけ――

 “自分が見ていること”を、見つめる感覚を味わっていた。


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