第163章 他者の消失 ― 共感の熱死
風が強くなり、講堂の戸がかすかに鳴った。
電源を節約するため、灯は一つだけ。
Ω教授の影が黒板にゆらめく。
その手には、古びた通信端末が握られていた。
「今夜は、“他者”について話しましょう。」
その声は、外の雷鳴よりも静かで、しかしどこか底冷えのする響きを帯びていた。
教授は黒板に一文字ずつ、白くチョークを走らせる。
他 者 = 自分の理解を拒む存在
1. 消された声の時代
「21世紀の文明は、“他者”を消しました。」
教授はそう言って、端末を机に置いた。
画面には、SNSの断片的なコメントが並んでいる。
すべて同じ意見、同じ言葉、同じ温度。
「この頃の人々は、見たいものしか見ず、聞きたい声しか聞かなくなった。
アルゴリズムが“共感”を最適化した結果、
異なる意見はノイズとして除去されたのです。」
生徒の一人が口を開く。
「でも、みんな仲良くなるなら、それでいいのでは?」
教授は静かに首を振った。
「それは“共鳴”です。共感ではない。
共鳴とは、同じ音が重なること。
だが、共感とは、違う音を聴き取ろうとする努力です。」
黒板にもう一行、書き加えられた。
「共鳴=快楽 / 共感=摩擦」
2. 他者という鏡
教授は黒板の前に立ち、静かに話し続けた。
「他者とは、あなたを不安にする存在です。
理解できない言葉、違う価値観、見たことのない痛み。
その異質さに触れるとき、人は“自分の限界”を知る。
だから、他者は鏡なのです。
鏡の中に、自分の届かない場所が映る。」
後列の生徒が、眉をひそめて言った。
「……でも先生、今の時代に“理解できない相手”は怖いです。
争いを生むだけじゃありませんか?」
Ω教授は目を閉じた。
「ええ。だからこそ、文明は“他者を消した”。
だが、それは同時に、成長する知性を殺したということです。
他者がいなければ、知性は自分を相対化できない。
世界は鏡のない部屋になり、自分の姿を永遠に見失う。」
3. 「声」を聴く実験
教授は机の上に小型レコーダーを置いた。
「これは、災害時に録音された避難民の声です。
名前も国籍も、わかりません。
――聴いて、何を感じるかを教えてください。」
再生ボタンが押される。
雑音の向こうで、かすかな声が響いた。
> 「水をください……子どもが……ここにいます……」
生徒たちは、息をのんだ。
数秒の沈黙。
そして一人の男子生徒が、ぽつりと呟いた。
「言葉が……わからない。でも、胸が痛い。」
教授は微笑み、黒板に書く。
「理解できないことを感じる力=共感」
「その痛みを、頭で説明しなくていい。
ただ、感じなさい。
それが、知性が生きているという証です。」
4. 熱死する共感
外で雷が鳴り、雨が激しく屋根を打ち始めた。
教授は少し声を張り上げる。
「共感は、熱です。
しかし21世紀、人々は“同じ温度”で群れるようになった。
異なる温度がぶつかる場所にこそ、生命の循環がある。
温度が均一化された社会は、やがて“熱死”する。」
チョークの音が響く。
「共感の熱死=異質の消滅」
「他者を消す社会は、いずれ想像力を失う。
想像力のない文明は、倫理も芸術も再生できない。
だから――この寺子屋では、“異なる声”を聴く訓練を続けるのです。」
5. 最後の灯と黒板の言葉
雷鳴が遠ざかり、雨音だけが残った。
Ω教授は黒板の最後の一角に、ゆっくりと書いた。
「他者は、あなたを世界に結びつける最後の糸。」
その文字を見つめて、生徒たちはしばらく誰も動かなかった。
やがて、最前列の少女が言った。
「……先生、もしその糸が切れたら?」
教授は、灯の揺れる中で答えた。
「そのとき、あなたが“新しい他者”になるのです。
他者を感じられる者こそが、次の世界を織る人です。」
雨の匂いが講堂に満ちていた。
誰も言葉を発さぬまま、外の音を聴いていた。
遠くの山の闇の中で、雷が最後の一度だけ光った。
その光に照らされて、黒板の文字――
「他者は、あなたを世界に結びつける最後の糸」
が、淡く輝いた。