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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2006/2267

第162章 感性の退化 ― 理性に侵食される感情



 夜の風が、窓に吊るされた古いカーテンを揺らしていた。

 ランプの火が淡く灯る講堂の中央には、一台のピアノが置かれている。

 その木目はひび割れ、鍵盤のいくつかは欠けていた。

 それでも音はまだ生きている。

 Ω教授はその前に立ち、生徒たちをゆっくりと見渡した。


 「――きょうの講義は、“感性”について話しましょう。

  人間は今、“感じる”という行為を、ほとんど忘れかけています。」


 その声には、どこか祈りのような静けさがあった。


1. 感じることを恐れる文明


 教授は黒板に大きく一行を書いた。

 「感性=理性の限界を知らせるセンサー」


 「文明が進むほど、私たちは“誤解を嫌う”ようになります。

  だから曖昧さ、涙、震え――そうした“非効率な揺らぎ”を排除してきた。

  だが、感性とは、世界を感じ取る微細な誤差のことなのです。

  それが退化すれば、理性は暴走を始める。」


 生徒たちは息を詰めて聞いていた。

 彼らは戦後のデジタル教育の世代で、正答と効率に慣れていた。

 感情を測定可能なデータに還元し、

 「感動スコア」「幸福指数」などを数値で学んできたのだ。


 教授は目を細めて続けた。

 「だが、心拍数で美を測ることはできません。

  美とは、“理解できないのに涙が出る”瞬間のことです。

  それは理性にとってはノイズであり、

  しかし知性にとっては、世界があなたに触れてきた証拠なのです。」


2. ピアノの音と涙の構造


 教授はピアノの前に座り、静かに鍵盤を叩いた。

 最初の音は弱く、震えていた。

 だが次の和音が重なると、講堂全体が息をのんだ。

 湿った木の響きが空気を伝い、

 遠く山の向こうまで広がっていくようだった。


 「……この音を、どう感じましたか?」


 最前列の少女が手を挙げた。

 「少し……怖かったです。でも、きれいでした。」


 教授はうなずいた。

 「その“怖さ”が大切です。

  感性とは、理解を超えたところで震える心の反応。

  美しさの中に恐れを感じるとき、

  あなたは“存在の深さ”を観測している。」


 彼は再びピアノを弾いた。

 今度は短調の旋律が、雨の匂いを連れてきた。

 誰も言葉を発さなかった。

 その沈黙が、教室の空気そのものを震わせていた。


3. 美とは誤りを包み込む知性


 演奏が終わると、教授は黒板にこう書いた。

 「美=誤りを受け入れる理性」


 「芸術や詩や音楽が人間に必要なのは、

  それらが“理解できないもの”を受け入れるための装置だからです。

  理性は境界を引く。

  感性は、その境界の外にある世界を感じ取る。

  だからこそ、感性が退化した文明は、

  “異質なもの”を受け入れられなくなるのです。」


 教授の目が、かすかに笑った。

 「あなたがもし涙を流したら、それは誤りではありません。

  それは、知性が“限界を感じている”瞬間です。」


4. 最後の詩と黒板の言葉


 教授は古いノートを開き、一篇の詩を朗読した。

 それは、名も知らぬ避難民の書いた詩だった。


 > 夜の底で

 > 世界が私に話しかける

 > 私は聞き取れない

 > でも、その沈黙が

 > 私を抱きしめている


 朗読が終わると、誰も動かなかった。

 外の風がまた吹き、ランプの火が小さく揺れた。

 教授は黒板に、ゆっくりと最後の言葉を書いた。


 「感性とは、理解できないものを愛する力。」


 その文字を見つめながら、

 学生のひとりが静かに涙をぬぐった。

 教授はその様子を見て、微かにうなずいた。


 「よろしい。それが“知性の証”です。

  感じることを恥じてはいけない。

  文明の再生は、涙の記憶から始まるのです。」


外では虫の声が高まり、

夜空の一角で雷が小さく光った。

その一瞬の閃光を、誰もが見上げた――

まるで、世界がまだ生きているという証を確かめるように。


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