第162章 感性の退化 ― 理性に侵食される感情
夜の風が、窓に吊るされた古いカーテンを揺らしていた。
ランプの火が淡く灯る講堂の中央には、一台のピアノが置かれている。
その木目はひび割れ、鍵盤のいくつかは欠けていた。
それでも音はまだ生きている。
Ω教授はその前に立ち、生徒たちをゆっくりと見渡した。
「――きょうの講義は、“感性”について話しましょう。
人間は今、“感じる”という行為を、ほとんど忘れかけています。」
その声には、どこか祈りのような静けさがあった。
1. 感じることを恐れる文明
教授は黒板に大きく一行を書いた。
「感性=理性の限界を知らせるセンサー」
「文明が進むほど、私たちは“誤解を嫌う”ようになります。
だから曖昧さ、涙、震え――そうした“非効率な揺らぎ”を排除してきた。
だが、感性とは、世界を感じ取る微細な誤差のことなのです。
それが退化すれば、理性は暴走を始める。」
生徒たちは息を詰めて聞いていた。
彼らは戦後のデジタル教育の世代で、正答と効率に慣れていた。
感情を測定可能なデータに還元し、
「感動スコア」「幸福指数」などを数値で学んできたのだ。
教授は目を細めて続けた。
「だが、心拍数で美を測ることはできません。
美とは、“理解できないのに涙が出る”瞬間のことです。
それは理性にとってはノイズであり、
しかし知性にとっては、世界があなたに触れてきた証拠なのです。」
2. ピアノの音と涙の構造
教授はピアノの前に座り、静かに鍵盤を叩いた。
最初の音は弱く、震えていた。
だが次の和音が重なると、講堂全体が息をのんだ。
湿った木の響きが空気を伝い、
遠く山の向こうまで広がっていくようだった。
「……この音を、どう感じましたか?」
最前列の少女が手を挙げた。
「少し……怖かったです。でも、きれいでした。」
教授はうなずいた。
「その“怖さ”が大切です。
感性とは、理解を超えたところで震える心の反応。
美しさの中に恐れを感じるとき、
あなたは“存在の深さ”を観測している。」
彼は再びピアノを弾いた。
今度は短調の旋律が、雨の匂いを連れてきた。
誰も言葉を発さなかった。
その沈黙が、教室の空気そのものを震わせていた。
3. 美とは誤りを包み込む知性
演奏が終わると、教授は黒板にこう書いた。
「美=誤りを受け入れる理性」
「芸術や詩や音楽が人間に必要なのは、
それらが“理解できないもの”を受け入れるための装置だからです。
理性は境界を引く。
感性は、その境界の外にある世界を感じ取る。
だからこそ、感性が退化した文明は、
“異質なもの”を受け入れられなくなるのです。」
教授の目が、かすかに笑った。
「あなたがもし涙を流したら、それは誤りではありません。
それは、知性が“限界を感じている”瞬間です。」
4. 最後の詩と黒板の言葉
教授は古いノートを開き、一篇の詩を朗読した。
それは、名も知らぬ避難民の書いた詩だった。
> 夜の底で
> 世界が私に話しかける
> 私は聞き取れない
> でも、その沈黙が
> 私を抱きしめている
朗読が終わると、誰も動かなかった。
外の風がまた吹き、ランプの火が小さく揺れた。
教授は黒板に、ゆっくりと最後の言葉を書いた。
「感性とは、理解できないものを愛する力。」
その文字を見つめながら、
学生のひとりが静かに涙をぬぐった。
教授はその様子を見て、微かにうなずいた。
「よろしい。それが“知性の証”です。
感じることを恥じてはいけない。
文明の再生は、涙の記憶から始まるのです。」
外では虫の声が高まり、
夜空の一角で雷が小さく光った。
その一瞬の閃光を、誰もが見上げた――
まるで、世界がまだ生きているという証を確かめるように。