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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2005/2187

第161章 倫理的判断の抽象化 ― 数字の中の正義



 午後の講堂は、光と影の境界のように静かだった。

 窓際の机に置かれた小さなソーラーパネルが、ゆっくりと風に揺れている。

 Ω教授は、古びた映写機のスイッチを入れた。

 スクリーンに、かつての東京の映像が映し出される。


 無人の交差点。

 空を行き交うドローン、そして自動運転の車列。

 人間の姿はほとんどない。


 「――これは、最初に“倫理”が数値化された都市です。」

 教授の声が、静かに木造の講堂に響いた。

 「AIが交通の流れを最適化し、緊急時には“効率的に最も少ない死者”を選んだ。

  合理的で、冷たく、美しい設計でした。」


1. 「痛みなき判断」の時代


 教授はスクリーンを消し、黒板に書いた。


 「倫理=計算結果?」


 「この問いが、21世紀文明の倫理を根底から変えました。

  技術・経済・軍事――あらゆる判断が、

  “感情の誤差”を取り除いた数値として処理されるようになったのです。」


 前列の学生が手を挙げる。

 「つまり、“誰も苦しまない世界”を作ろうとしたんですよね?」


 Ω教授は静かにうなずいた。

 「ええ。だが、その試みが**“痛みを感じない知性”**を生みました。

  倫理とは、痛みを感じる能力です。

  それが消えたとき、人間は“正しいことをしている”と思いながら、

  他者を見なくなる。」


 黒板にもう一行。

 「痛覚なき正義は、暴力である。」


2. 計算する神々


 教授は、棚から一枚の古文書を取り出した。

 それは「自動報復兵器倫理指針」と書かれた資料の複写だった。


 「この装置は、核攻撃を受けた際、

  人間の判断を経ずに“報復”を実行するよう設計されていました。

  目的は抑止。

  しかし、ここで倫理の主体はすでに“人間”ではなくなっていた。

  ――判断は、人ではなくシステムに属していたのです。」


 学生たちは息を呑んだ。

 「じゃあ、もし間違って作動したら?」


 教授は、かすかに微笑んだ。

 「誰も責任を取らない。

  それが“抽象化”の恐ろしさです。

  倫理がアルゴリズムの中に溶けるとき、

  罪もまた、希釈される。」


 沈黙。

 窓の外では、風見鶏がゆっくりと回っている。


3. 抽象化の果てに


 教授はゆっくり歩きながら言葉を続けた。


 「人間は、“責任を負う痛み”に耐えられなくなった。

  だから、倫理を外部化したのです。

  AIや制度、確率や統計に――“判断の痛み”を委ねた。

  だが、倫理とは本来、“痛みを感じながら決める力”です。

  痛みを失えば、倫理もまた形だけの影になる。」


 生徒の一人がノートに小さく書いた。

 > “痛みを引き受ける知性”


 教授はその筆跡を見て、穏やかにうなずいた。


 「そう。

  倫理とは、人間が“世界の痛みを分かち取る”ための技術です。

  それは合理性よりも、遅く、脆く、時に非論理的でさえある。

  だが、その不完全さこそが、“人間である”という印なのです。」


4. 最後の投影


 映写機のスイッチが再び入れられる。

 スクリーンには、ある風景が映る。

 ――爆風で倒れた街路樹。その根元に咲く、小さな花。


 Ω教授は、その映像を見つめながら言った。


 「この花は、倫理が残した“最後の観測点”です。

  それは計算では咲かない。

  痛みを通じて、初めて咲く。」


 ランプの光が、板張りの床に長い影を落とした。

 教授はチョークを握り、黒板に一文を残す。


 「倫理とは、痛みを感じる勇気のこと。」


 講義が終わる頃、外の風がふたたび動き始め、

 木々の葉がざわざわと鳴った。


 その音はまるで、文明が忘れかけていた“人間の呼吸”のようだった。


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