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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2003/2187

第159章 情報過多による知の崩壊 ― 思考の時間を失った文明



 翌朝、講堂の窓を叩く雨音で目が覚めた。

 昨夜の星空はもうどこにもない。灰色の空が低く垂れ込み、山の稜線をぼかしていた。

 生徒たちは濡れた靴を脱ぎ、焙煎豆の香る教室に集まった。

 Ω教授はランプの火を調整しながら、黒板にゆっくりと文字を書いた。


 「情報は光。だが、知識は影をもつ。」


 「――きょうの講義は、文明が“光に溺れた”話から始めましょう。」


 教授の声は穏やかだったが、その言葉の底に、どこか痛みのような静けさがあった。


1. 光の速度で流れる思考


 「21世紀の人類は、光の速度で考えるようになった。

  検索すればすぐに答えが出る。情報が早ければ、それが“知”だと錯覚した。

  だが――思考には速度制限がある。

  知性とは、“遅く考える能力”なのです。」


 教授は黒板に二つの円を描いた。

 一つはめまぐるしく矢印が回転する「情報の円」。

 もう一つは静かに点滅する「知識の円」。


 「情報は、現象を写す光です。

  けれど、光だけでは形は見えない。

  影――すなわち、時間と抵抗がなければ、知は生まれない。」


 窓の外で雨が強くなる。屋根を打つ音が、まるで文明のノイズのように響いた。

 生徒の一人が小声でつぶやいた。

 「でも先生、今は“遅い”こと自体が不利ですよ。

  思考よりも反応が求められる。ネットでは“早さが真理”みたいに……。」


 教授は頷き、少し微笑んだ。

 「ええ、それが“知の崩壊”の始まりです。

  情報社会とは、“理解よりも反応が価値になる社会”。

  理解は時間を要するが、反応は即時に報われる。

  その報酬構造が、思考の筋肉を萎縮させてしまった。」


2. 泡のような知識


 教授は机の上のコップを取り上げ、水を静かに注いだ。

 すると、泡が無数に立ちのぼり、やがて消えていく。


 「この泡が、現代の“知識”の形です。

  一つひとつは確かに輝いている。

  だが、互いにつながる前に、次の泡が生まれ、古い泡は弾ける。

  体系は構築されず、記憶は“更新”に溶けていく。

  ――結果、知は深まらず、ただ“流動する泡”として漂う。」


 黒板にもう一行。

 「知とは、泡を束ねる抵抗の構造。」


 「哲学や科学は、本来“遅い知性”の上に築かれました。

  観測、推論、検証――すべてが時間を必要とする。

  しかしAIとアルゴリズムが思考の速度を無限に近づけた今、

  “時間をかけること”そのものが、贅沢で非効率になってしまった。

  この逆説こそが、文明の臨界点なのです。」


3. 思考のスケール崩壊


 教授は外の雨音に耳を澄ませながら、

 「スケール」という言葉をチョークで強調した。


 「情報過多の本質的な問題は、“スケールの崩壊”です。

  銀河のニュースも、戦争の速報も、猫の動画も――

  同じ画面の同じサイズで流れる。

  その結果、人間の心は“重要度の差”を失い、

  あらゆる出来事が同じ平面上のノイズになる。」


 沈黙。

 学生のひとりが、焙煎の煙を見つめながら言った。

 「……つまり、私たちはもう、何が“大きい”のか分からないんですね。」


 教授はうなずいた。

 「そう。“スケールを見失う”とは、世界の重力を失うということ。

  情報とは重さを持たない。だから軽い。

  けれど、知識には重さがある。

  それを支えるのが――時間です。」


4. 最後の黒板


 講義の終わりに、教授はチョークを置いて言った。


 「情報が増えれば増えるほど、

  “知らないこと”の実感は薄れる。

  それは paradox です。

  知らないことを感じなくなったとき、知性は成長を止める。

  ――だから、今この寺子屋では“遅く考える訓練”をするのです。」


 雨脚が弱まり、雲の切れ間から淡い光が差し込んだ。

 教授は黒板を拭きながら、ひとつだけ文字を残した。


 「知性とは、時間の抵抗を愛する勇気。」


 その言葉が白く浮かび、静かな講堂の空気に溶けていった。


 窓の外、濡れた畑の向こうで、子どもたちが種を蒔いていた。

 遅く、しかし確かに。

 その姿を見て、生徒のひとりが小さくつぶやいた。

 「……先生、あの子たちの動きこそ、“思考の速度”なんですね。」


 Ω教授はうなずき、静かに微笑んだ。

 「ええ。知性とは、焦らず、芽吹きを待つ力です。」


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