第158章 沈黙のスクリーン ― 観測なき文明の夜明け
風が廊下を抜け、古い木の床を鳴らした。
窓の外では、四国の山々が夕陽に赤く染まっている。東京が消えてから二年。瓦礫と電波の向こうで沈黙した文明の残骸から、人々はようやく「知る」ことの意味を取り戻そうとしていた。
新寺子屋――。
この疎開地に残された唯一の教育施設だ。電力は水車と風車、通信は山越えの電波中継。外界からはほとんど隔絶されているが、それがかえって人々に思索の静けさを与えていた。
その夜、灯油ランプの下で、Ω教授の講義が始まる。
壁一面の黒板には白いチョークで一行だけ――
「観測とは、摩擦である」
教授はゆっくりと口を開いた。
「みなさん。私たちは“見る”という行為を、あまりに軽く使いすぎてきました。
だが――“観測”とは、見えるということではなく、“ぶつかる”ということです。」
ざわ、と学生たちの間に微かな息が走る。
机の上のタブレットはもう動かない。ネットもない。だが、その静寂のなかで、言葉だけがかすかな熱をもって空気を振動させた。
「私たちは長い間、“滑らかな世界”を作り続けてきた。
VR、SNS、AI……それらはすべて、現実のざらつきを削り取る装置でした。
見たいものだけを見る。触れたくないものには触れない。
それは観測の喪失――摩擦なき文明の夜明けでした。」
後列の若い女性が手を挙げる。
「先生、それは悪いことなんですか?
苦しみを減らし、争いを避けるのが進化だと、ずっと教わってきました。」
教授はうなずいた。
「ええ。痛みのない世界は、優しい。だが、痛みを失った知性は観測を失う。
観測とは、“自分が限界にぶつかる”瞬間のことだからです。」
教室の壁に吊るされた古いスクリーンには、静止した映像が映っている。
それは、爆心地跡に立つ一本の木。枝は焼け落ち、幹だけが灰色に残っている。
Ω教授は指でそれを示した。
「この木を“見る”ことは容易い。
だが、“観測する”とは、この木が焼けた熱と煙の匂い、
風の音、そしてあなたの胸の奥で生じる抵抗を感じ取ることです。
その摩擦こそが、あなたを“観測者”にする。」
沈黙。
生徒たちはそれぞれのノートに、チョークの音を思い出すように筆を走らせた。
教授は静かに続けた。
「ヴァーチャル化とは、この摩擦を消す行為です。
AIはあなたの“望む答え”を瞬時に返す。
だが、本当の知性は、答えではなく抵抗に宿る。
知るとは、世界にぶつかり、跳ね返り、もう一度考え直す運動です。」
黒板にもう一つ、チョークが書き加えられた。
観測=限界 × 意識
「この公式を覚えておきなさい。
観測には“限界”が必要です。限界のない世界では、
意識は流体のように拡散してしまう。
だから、私たちは今、この疎開地で――再び“限界を感じる”訓練をする。」
風が講堂の障子を揺らす。
遠くで蛙の声が響き、ランプの火が小さく揺れる。
Ω教授の声が低く響いた。
「東京は、スケールの喪失に沈んだ都市でした。
銀河の写真も、食卓も、ニュースも、同じ画面で見られた。
距離の感覚を失った人間は、自分の位置を見失う。
――だから、我々はここで、もう一度“見るとは何か”から始めるのです。」
講義が終わると、外の風がひんやりと吹き込んできた。
生徒たちは一人ずつ、廊下の窓から夜空を見上げた。
月は欠け、星々が冴え冴えと光っている。
その星の光は、数億年をかけて今この瞬間に届いたものだった。
Ω教授は最後に言った。
「それが“観測”です。
あなたが見ている光は、もう存在しない星の記憶。
――観測とは、時間の抵抗に触れることなのです。」
誰も言葉を発さなかった。
その夜、寺子屋の窓から洩れた光は、遠く山の稜線をかすかに照らした。